原爆翌日に広島で生まれた男性、母の愛胸に語り部として核廃絶訴え
原爆翌日に広島で生まれた男性、母の愛胸に語り部として核廃絶訴え

「私は、1945年8月7日に広島で生まれました」。岡山県倉敷市の倉敷公民館で今年8月16日に開かれた被爆体験の講話会で、杉山さんは部屋を埋めた30人ほどの聴衆に向かってこう自己紹介した。どよめきが広がる中、「そう、原爆投下の翌日です」と続けた。とつとつと、亡き母から聞いたことを語っていった。

爆心地から1・8キロで被爆した母

あの日、身重だった母クニヱさんは爆心地から1・8キロで爆風を浴び、倒壊した自宅の下敷きになった。猛火の中、見知らぬ人らに助け出されたという。翌7日、大勢の負傷者らと船で避難した広島市沖の似島で産気づく。まだ妊娠8か月。居合わせた助産師に取り上げられたのが、自分だった。

しばらくして、クニヱさんは市中に戻る船で高齢の女性から「この赤ちゃんは黄だんが出とる。もう助からんから、海へ捨てなさい」と声を掛けられた。それでも、「息がある限りは」と守ってくれたという。爆心地近くへ仕事に出ていた父は、骨も見つからなかった。クニヱさんは再婚し、食堂を切り盛りして育ててくれた。

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高校生で初めて知った母の苦労

そんな苦労を初めて聞かされたのは、自身が高校生になった頃だった。「母は悲惨な過去を隠しておきたかったんでしょうね。私も原爆には全く興味がなかったし……」と振り返る。被爆死した父の存在にショックを受けたが、それ以上に地獄絵図の中で産んでくれた母の愛を感じた。

感謝を胸に、高校を出た後は懸命に働いてきた。仕事の都合で倉敷市に移り住み、がんとの闘いも経験しながら「いつも命の尊さを考えてきた」。還暦を前に、県原爆被爆者会倉敷支部(倉敷被爆者会)に入会したのには、2000年に78歳で亡くなったクニヱさんの思いを引き継いでいこうという考えもあった。ただ、積極的に境遇を語ってきたわけではない。

語り部として次世代へ

転機は10年ほど前。自身の体験について手記を書く機会があり、「何をどう書けばいいのか戸惑った」。記憶も原爆の悲惨さを語る言葉もない胎内被爆者としての葛藤だった。それでも自分と向き合うきっかけになり、母から聞いたことを少しでも伝えたいと語り部を始めた。

倉敷被爆者会から小中学校へ派遣され、「私が皆さんに自分のことを話すのは、二度と核兵器が使われない世界にするためです」と子どもたちに訴える。それは、原爆投下の翌日に広島で生まれた意味を、自分に問い掛けた時の答えでもある。原爆投下後、野戦病院となった似島には次々と負傷者が運び込まれたが、大半が死亡し、埋葬されるなどした。そんな島で生を受けた運命をかみ締める。

8月16日の講話は、倉敷被爆者会が5日間にわたって開いた原爆展の一環で、「平和宣言」の全文を朗読した。「被爆者の切実な思いが込められた『ヒロシマの心』を胸に、共に行動することで世界を変えていきましょう」。最後の一文は、特に力を込めた。ウクライナなど世界中で武力衝突が続く現状を思い、一言一言の重みを感じながら。

「何度死んでもおかしくなかった私がここまで歩んできた。一緒に次世代へ思いをつないでいきませんか」と呼び掛け、約50分間の講話を締めくくった。「私の話を聞いた人が、周囲に伝える。そうやって広がっていけば、核兵器のない世界をつくる道しるべの一つになる」と信じ、語り部を続けていく。

原爆展には終戦80年だった昨年の3倍に当たる約2700人が訪れた。希望を、捨てない。

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