1980年代、マイクロソフトのパソコン向け基本ソフト(OS)が世界を席巻する中、一人の日本人がOSを開発し、世界のメーカーに無料で公開する一大プロジェクトを始めた。OSの名は「TRON(トロン)」。当時、東京大学の助手だった坂村健(現東大名誉教授)が開発した日本発の国産OSだった。
トロンとは何か
トロンはパソコン専用のOSではなく、幅広い「コンピューター」を動かすためのOSだ。エアコンの温度が内蔵のコンピューターで制御されているように、家電製品やオフィス機器には小さなコンピューターが組み込まれている。坂村が考案したトロンは、機器に組み込まれているものも含め、あらゆるコンピューターを動かす土台となるOSだった。
坂村がトロンを開発したのは84年。当時、コンピューターは企業が社内に設置する大型が主流だったが、1個の半導体に収まるような「超小型コンピューター」も現れていた。世間では、そうしたコンピューターを性能面で劣る「おもちゃ」だと見る向きもあったが、坂村は「超小型コンピューターは今後、あらゆるモノの中に組み込まれるようになる」と考えていた。
無料公開という異例の手法
コンピューターが様々なモノに入る世界が来ると、動かす際の土台になる基本ソフトが必要になる。そこで開発したのがトロンだった。坂村には、世界に通用するソフトを日本から送り出したいとの思いもあった。コンピューターの世界では戦後、米国勢が圧倒的な強さを誇り、日本のコンピューター産業は米国の製品に大きく依存していたからだ。ただ、米国と同じ土俵で戦っても勝てない。これからやってくる超小型コンピューターの世界なら日本人でも戦える――。トロン開発の裏にはそんな読みもあった。
技術を囲い込むのが当たり前だったコンピューター業界で、坂村はトロンを無料で公開し、誰でも自由に使えて改良もできるようにした。今でこそ「オープンソース」と呼ばれ、定着している手法だが、当時は公開するという発想自体が珍しかった。「トロンを未来の社会インフラにするには、誰でも自由に使えるようにする必要があると思った」と坂村は語る。パソコン向けOSを独占し、日本のパソコンメーカーから利用料を取っていたマイクロソフトとは対照的な動きだった。
松下電器の参入
富士通、日立製作所、三菱電機、NEC……。坂村がトロン計画を発表すると、その思想に共鳴した日本メーカーの技術者たちが続々と計画に参加し、トロンを家電などに搭載し始めた。その中でトロンを使ってパソコンを開発しようとする企業が現れた。松下電器産業(現パナソニックホールディングス)だ。トロンは機器向けのOSとして開発されたが、消費者向けに作り込めば、パソコンOSとしても使うことができる。マイクロソフトOSのパソコン開発で出遅れていた松下電器が、「国産OSで巻き返そうと考えた」(坂村)のだった。



