「台湾野球の父」近藤兵太郎の再評価、映画「KANO」で光が当たる功績
近藤兵太郎再評価、映画「KANO」で台湾野球の父に光

「台湾野球の父」近藤兵太郎の功績と再評価の動き

近藤兵太郎(1888~1966年)は、「台湾野球の父」として広く知られる人物であり、その功績は台湾で長く語り継がれてきました。彼が監督を務めた嘉義農林学校(通称・嘉農)の教え子たちは、地元で野球を指導し、やがて日本のプロ野球で活躍する選手を多数輩出しました。郭源治、大豊泰昭(いずれも元中日ドラゴンズ)、郭泰源(元西武ライオンズ)、呂明賜(元読売ジャイアンツ)らがその代表例として記憶に新しい存在です。

台湾の野球関係者は、「近藤監督ありて嘉農野球部あり、嘉農野球部ありて今日の台湾野球がある」と語り、近藤の貢献を高く評価しています。戦後、近藤は故郷の松山に戻り、新田や愛媛大学で後進の育成に尽力しました。すでに還暦を迎えていたため、ノックバットを握る機会は少なかったと伝えられていますが、1966年に77歳で生涯を閉じるまで、野球への情熱を失うことはありませんでした。

戦後の評価と忘れられた存在

近藤の弟子である森茂雄・元松山商業高校監督は、新聞の追悼記事で「先生が東京にいられたら名監督になっていられたと思う。近代野球の元祖ともいえる惜しい人をなくした」と述べ、その才能を惜しみました。近藤がかつて率いた松山商業高校が、1969年の夏の甲子園で三沢高校(青森県)と延長十八回引き分け再試合の末に優勝したのは、彼の死から3年後のことでした。その後も時代とともに数多くの名勝負が生まれ、名将やヒーローが登場しましたが、近藤は過去の人物として次第に注目されなくなりました。

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映画「KANO」をきっかけとした再評価

近藤に再び光が当たったのは、2014年に台湾で大ヒットし、翌年に日本でも公開された映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」がきっかけでした。この作品は近藤や嘉農をモデルにし、民族混成チームの挑戦を描いています。作中では、「原住民は足が速い。漢人は打撃が強い。日本人は守備にたけている。こんな理想的なチームはどこにもない」という近藤の言葉が印象的で、当時の偏見に反論するシーンが描かれています。

さらに、東温市の坊っちゃん劇場では、ミュージカル「KANO~1931甲子園まで2000キロ~」が上演され、2024年には作品の舞台である嘉義市での公演も実現しました。こうした文化的な取り組みが、近藤の功績を広く知らしめる役割を果たしています。

台湾棒球名人堂選出と野球殿堂への期待

2014年、近藤は台湾野球への貢献が認められ、日本の野球殿堂に相当する「台湾棒球名人堂」に選出されました。日本人としては初めての快挙です。近年では、顕著な貢献をした人を対象とした野球殿堂の「特別表彰」候補者にも挙げられ、再評価の機運が高まっています。野球殿堂博物館(東京)の関口貴広学芸員(50歳)は、「顕彰活動は愛媛県が先行しており、大変意義がある」と評価しています。

松山市の野球歴史資料館には、近藤のコーナーが新設され、遺品のサインボールや映画で使用された野球用具などが展示されています。「近藤兵太郎をたたえる会」の林司朗会長(93歳)は、「先生は愛媛や台湾で野球の種をまいた原点の人。もっと物語を発掘していけば、野球殿堂入りも可能だ」と力を込めて語り、今後のさらなる顕彰に期待を寄せています。

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