佐賀、福岡両県境の佐賀県基山町内の広場にたたずむ江戸時代の境界標識「国境石」の三つの石標が、38年ぶりに史実に基づいて一直線に並ぶように再配置された。移設した際に3基の位置にずれが生じていた。
38年ぶりに史実通りの配置へ
国境石は「二国境石標」(高さ2.6メートル)1基、「傍示石」(高さ1メートル)2基の計3基で構成。「従是西肥前国対州領」「従是東筑前領」などと記されている。現在は基山町と福岡県筑紫野市の県境にある国道3号・三国境交差点そばの広場で保存されている。
基山町教育委員会によると、3基は元々国道3号上にあり、1988年に道路の拡幅工事に伴って現在地に移設。その際、2基の傍示石は地中に埋設保存し、代わりに複製を設置したが、一直線ではなくずれて設置された。移設後、地元の郷土史家が指摘したが、修正されることはなかった。
住民団体の要望で再配置工事
約2年前、古里の歴史を顕彰するボランティア団体「基肄かたろう会」が、「史実と異なる状態でガイドが苦しい説明を余儀なくされている」として、正しい配置に戻すように町に要望。国土交通省佐賀国道事務所は7~8月、同省福岡国道事務所と協力し、庄屋の古文書を基に工事に着手した。再配置に合わせて解説板も刷新した。
国境石を巡っては逸話が残されている。1805年(文化2年)に対馬藩の飛び地だった田代領(基山町と佐賀県鳥栖市東部)と福岡藩(福岡県北西部)の国境に植えられていた松の大木が枯れたことをきっかけに、両藩の村役人を務める庄屋間で境界論争が勃発。対馬藩側の庄屋が、近くにある筑後国・久留米藩(福岡県久留米市周辺)の国境を含めた「三国境石」を先に建て直すことを思いつき、3者による協議を進めて人間関係を築いた後、対馬藩側と福岡藩側の話し合いで境界を定めたという。
お披露目式典で関係者が喜び
9月10日に現地でお披露目の式典が行われ、松田一也町長が「地域を盛り上げるために歴史を知る必要がある」とあいさつ。来賓の筑紫野市教委の主税保徳教育長は市長の祝辞を代読し、「住民が積極的に取り組んでいる文化財の保護と活用によって国境石が地域で愛される宝になってほしい」と述べた。
基肄かたろう会のメンバーも出席し、野平氏隆会長(76)は、「昔の合戦跡を示す史跡は数多くあるが、先人が知恵を絞り、話し合いで平和的に争いごとを解決した貴重な文化財として後世に伝えたい」と話していた。