元内閣総理大臣の細川護煕(ほそかわもりひろ)さん(88)は、中高生時代、学校の先生よりも学外の恩師から大きな影響を受けたという。大学に入ってからも、学びの場は学校の外にあった。
学習院高等科から上智大学へ
「学習院高等科の頃から京都大学の足利惇氏(あしかがあつうじ)先生からマンツーマンで指導を受けていましたが、先生から大学は出ておいた方がよいと言われ、上智大学に入りました。ただ、大学では、私が恩師と感じてきた先生方から教わった『人生とは何か』『人生をどう生きるのか』といった深い学びは得られませんでした。唯一の収穫は、後に妻となる女性と出会ったことでしょうか」
祖父の幅広い人脈のおかげで、中高生の頃から当代一流の人物に接する機会にも恵まれた。
祖父の夕食会で一流の人々と交流
「私をかわいがってくれた祖父の護立(もりたつ)は『一番勉強になるのは、とにかく今の一流の人物に会うことだ』とよく言っていました。自宅の夕食会にはしょっちゅう各分野の一流と呼ばれる人物を呼び、必ず私も同席させてくれました。例えば、画家で言えば日本画の横山大観(よこやまたいかん)さん、洋画家の梅原龍三郎(うめはらりゅうざぶろう)さん、登山家の槙有恒(まきありつね)さん、プロ野球・巨人軍の川上哲治(かわかみてつはる)さんらです。
具体的に何を話したかは覚えていませんが、時代を動かしている人たちの持つ威圧感や存在感を10代の時から、直接肌で感じることができたのは、何より勉強になりました。吉田茂さんに初めて会ったのも10代の頃です。神奈川県大磯町のご自宅に行ったのですが、書斎にはアメリカの国際情報誌などの最新号が読みかけのまま広げられていました。チャーチルやドゴールら海外の政治指導者について、ウィットに富んだ人物談議を聞かせてもらいました」
新聞記者から政治家へ
大学卒業後は新聞記者になる。政治家を目指すための“修業”の一環だった。
「すでに政治の道に進むことは決めていたのですが、そのためには、新聞記者になってより広く社会のことを知っておいた方がよいだろうと考えました。1960年代は新聞記者出身の政治家が結構いました。なかでも著名な政治家を輩出していた朝日新聞を受けました。
最初に赴任したのは鹿児島支局で、サツ回り(警察担当)をしました。夏の暑い日に、宿直明けで支局の机の上にパンツ一枚で大の字になって寝ていたら、本社の偉い人が視察にやって来て、『あいつは相当な野蛮人だ』と言われ、あだ名が『野蛮人』になってしまいました。
新聞記者の生活は肌に合っている気もしましたが、政治家になるために就いた仕事だったので、結局6年で退職しました」
初挑戦の選挙には落選するも、2年後に念願の国会議員となる。
「1969年に熊本から衆議院議員に立候補しましたが、知名度不足で苦労しました。熊本は祖先ゆかりの地ではあっても、私にとっては見ず知らず同然の場所でした。2年後の71年、参議院の全国区で当選し、政治家としての第一歩を踏み出すことができました。その後、熊本県知事となり、新たな国政政党を作り、国政のトップに立つ機会にも恵まれました。色々と批判も受けましたが、私自身は、なすべき事をなし、完全燃焼したと考えています。
振り返ってみると、中高生時代は志を立てることが一番大事だと思います。私の場合は、古典を学び、恩師に恵まれ、政治指導者になろうと決めました。おいしいケーキを作る人でも、腕利きの美容師でも、何でもよいのです。志を立てて、それに向かって一生懸命に邁進(まいしん)すること。そうでないとあっという間に年だけ取っちゃうぞと、今の若い人たちには伝えたいですね」



