1866年(慶応2年)の第2次長州征討(四境の役)から160年を記念し、山口県周防大島町の八幡生涯学習のむら(久賀歴史民俗資料館)で企画展が開かれている。戦況を時系列で紹介するパネルや、地元に残る古文書などを展示し、歴史の転換点となった戦いを振り返る。
戦禍の記録
展示には、戦災で「難渋者」となった人々をまとめた当時の記録も含まれる。長州藩が攻め込んできた幕府軍を撃退したこの戦いは、幕府の権威失墜につながった。
四境の役の背景
長州藩は幕末、京都での主導権争いで公武合体派の会津藩・薩摩藩に退けられ、禁門の変で敗れた。幕府は第1次長州征討で長州藩を恭順させたが、この時は藩主・毛利敬親の意を受けた岩国藩主・吉川経幹が西郷隆盛と交渉し、戦火を免れた。その後、高杉晋作が主導権を握り、幕府への抵抗姿勢を強めた。
大島口の戦い
第2次征討では、幕府軍が周防大島、広島、島根、小倉の四つの境界から攻め寄せたため、四境の役とも呼ばれる。海上要衝・周防大島での大島口の戦いはその緒戦で、幕府軍が圧倒的戦力で一時占拠した。しかし、長州側は高杉が乗り込んだ軍艦の奇襲や、島の地形を熟知した第二奇兵隊、地元郡兵らの巧みな戦術で奪還。この勝利後、長州藩は各地で戦局を優位に進め、幕府軍は14代将軍・徳川家茂の急死を受け撤兵した。



