朝ドラ『風、薫る』舞台の明治初期「大新聞」と「小新聞」の違いとは
朝ドラ『風、薫る』舞台の明治初期「大新聞」と「小新聞」の違い

現在放送中のNHK連続テレビ小説『風、薫る』は、明治初期の新聞記者たちの奮闘を描いている。この時代、新聞は「大新聞」と「小新聞」の2種類に分類されていた。それぞれの特徴や違いを、当時の新聞界のエピソードとともに振り返る。

大新聞と小新聞の違い

明治初期の新聞は、大きく「大新聞」と「小新聞」に分けられる。大新聞は政治論説や政論を中心に扱い、主に知識人や政治家を読者層としていた。一方、小新聞は庶民向けに娯楽や事件記事を中心に掲載し、読みやすさを重視していた。両者は紙面のスタイルも異なり、大新聞は縦書きの漢文調、小新聞は横書きの口語体が用いられることが多かった。

大新聞の代表例として、『東京日日新聞』や『朝野新聞』、『郵便報知新聞』などが挙げられる。これらの新聞は政府批判を掲載することも多く、しばしば発禁処分や編集責任者の逮捕といった弾圧を受けた。

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大新聞と政府の緊張関係

大新聞の編集者の中には、政府の政策を鋭く批判する者も多かった。例えば、伊予宇和島藩出身で藩校に学んだ後に上京した末広鉄腸は、明治8年4月に『朝野新聞』の編集長に就任した。しかし、その2か月後に公布されたばかりの讒謗律・新聞紙条例を真っ向から論じて批判したことで、当局の目に留まり、禁獄2か月、罰金20円の処分を受けた。皮肉なことに、新法の最初の摘発対象になったことがかえって読者の関心を呼び、末広は一躍、世間に名を知られる存在となった。

批判精神は読者の支持を集める一方で、編集責任者の逮捕や発禁処分は経営を直撃した。実際、評論新聞の執筆者だった小松原英太郎は、政府への過激な批判論説を掲載したことで新聞紙条例違反に問われ、明治9年に逮捕・投獄されている。政府との緊張関係は、大新聞にとって諸刃の剣だったといえる。

大新聞の文芸面が育てた文学者たち

政治の硬い論説ばかりが大新聞の紙面を占めていたわけではない。明治後期になると、大新聞は文学・俳句といった文芸面にも力を入れるようになる。その代表例が、政論新聞『日本』である。条約改正と欧化政策に反対する立場から陸羯南が創刊したこの新聞は、国民精神の高揚を掲げる硬骨の政論新聞でありながら、文芸欄に俳句や随筆を載せる懐の深さも持っていた。

明治25年(1892年)、東京帝国大学を中退した正岡子規は、ほぼ同時期に新聞『日本』に入社。子規自身は政治記事を書く記者ではなく、もっぱら文芸欄を担い、「獺祭書屋俳話」の連載をきっかけに俳句革新運動を本格化させていった。月並俳句を斬り捨て、写生を重んじる新しい俳句のあり方を世に問うた舞台は、まさにこの大新聞の紙面だった。晩年の随筆「墨汁一滴」「病牀六尺」も同紙に連載され、病床にあった子規にとって『日本』は文学活動そのものを支える基盤になっていた。

子規と同時代を生きた夏目漱石もまた、新聞と縁の深い文学者である。漱石は子規の友人として知られ、二人の交流は俳句や漢詩をめぐる手紙のやり取りにも残っているが、後年、漱石自身も朝日新聞社に専属作家として入社。『三四郎』『こゝろ』といった代表作を新聞小説として連載した。このように、大新聞は文芸面を通じて多くの文学者を育て、日本の近代文学の発展に大きく貢献したのである。

朝ドラ『風、薫る』の舞台となった明治初期の新聞界は、政治と文学が交錯するダイナミックな時代だった。大新聞と小新聞の違いを知ることで、ドラマの背景がより深く理解できるだろう。

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