200頭超のクマを仕留めた名人が「殺られる」と覚悟した瞬間 子グマを撃たれ殺気立つ母グマが2メートル先に
200頭超のクマを仕留めた名人が覚悟した瞬間

200頭を超えるクマを仕留めた名人が、思わず「殺られる」と覚悟した瞬間があった。目の前にいたのは、子グマを撃たれて殺気立つ母グマだった。赤石正男さんの狩猟人生を追ったノンフィクション『羆撃ちに人生を賭けた男』(藤本靖著、山と溪谷社)から、クマ撃ちの現場に潜む危険を紹介する。

ヒグマも肥える季節に

今年も狩猟期が巡ってきた。周囲の木々は紅葉を終え、夏の間は鬱蒼としていた森も葉を落とし、所々に隙間が生まれている。世界中の多くの狩猟地が10月からシーズンを始めるのは、まさにこの“見通し”がきくからだ。葉が落ちれば、獲物を見誤る危険も減り、誤射のリスクも下がる。林道沿いの草木も、すでに晩秋の装いである。

「アカ、明日はどこに入る」昨晩、“電気屋さん”こと斉藤泰和から携帯に電話があった。赤石の古くからの猟仲間で、家業が電気工事店であったことから、仲間内ではそう呼ばれていた。「いつも通り、山際の林道を見てくるわ」「わかった。仕事が終わり次第、俺もいってみるわ」。彼らは狩猟時期になるとお互い、常に連絡を取り合い情報を取り交わす。単独猟では、不意の事故などで動けなくなった場合、基本は誰も助けてはくれない。前夜の情報交換は、ハンターにとって、いわば保険のようなものだ。

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赤石は、いつものようにエゾシカ猟で使い続けている愛用の7ミリ口径ライフルを手にハイラックスに乗り込んだ。10分ほど走ると林道へ入る。枝先に残るコクワやヤマブドウをひょいひょいと目で拾いながら進んでいく。「今年は実の生りがいい。ヒグマも、だいぶ脂を溜めているかもしれん」と赤石はつぶやいた。

ヒグマが潜んでいそうな林道に

山沿いの林道は海岸よりも秋が深まるのが早く、木々の枝はすでに裸で、空が透けて見える。赤石は一本一本の林道を丹念に走破していく。誰も踏み入れていない道は草が道幅を覆い、まるで藪だ。しかし赤石は、ここがかつての作業道だったころから熟知しているため、迷わず奥へ進む。

山奥へと深く入り込む道は、この時期、ヒグマが潜んでいる可能性が高い。川に沿って延びる道を進むと、葉を落とした枝が車体をかすめ、「キィー」と耳障りな音を立てる。そのたびにボディが軋きしんだ。

やがて道は二股となり、一方は河原へと降りていた。赤石は迷わず河原のほうを選ぶ。川の水量は少ない。ハイラックスで、ゴロ石を踏みしめながら川へ入っていく。水深は浅いが、対岸はわずかに切り立ち、登り切れるかどうか一瞬の判断を要する。前輪が水に入ると、ガタガタと川底の起伏が車体に伝わった。川を横切り、最後の登りに差しかかる。四輪駆動はしっかり川底をグリップし、ボンネットが跳ね上がったかと思うほどの勢いで川べりをよじ登る。

登り切ったところからは泥道が続く。普通の車では到底進めないが、悪路走破用に仕上げた赤石のハイラックスは、悠々と泥を割りながら前進していく。大雨のときに川が溢れたのだろう。荒道の窪地にはあちこちに水が溜まっている。泥を漕ぎ、水溜まりを割り、ようやく先ほどの林道へと戻りついた。両脇にはカラマツ林が広がり、トドマツが隣生するこの山域は、ヒグマが好んで棲みつく場所でもある。赤石は速度を落とし、林道を慎重に進んだ。

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まずい、殺られる

そのとき、赤石の直感が働いた。前方の林道に、異様な気配を感じたのだ。車を停め、ライフルを構えて周囲を見渡す。すると、2メートル先の藪の中から、一頭の母グマが立ち上がった。その目は血走り、今にも飛びかからんばかりの殺気を放っている。赤石はすぐに状況を悟った。先ほど、どこかで子グマが撃たれたのだ。母グマはその報復に燃えている。

「まずい、殺られる」。赤石はそう覚悟した。200頭を超えるクマを仕留めてきた名人でも、この距離では逃げ場がない。母グマはゆっくりと前足を踏み出し、赤石との距離を詰めようとしている。赤石はライフルを構えたまま、一歩も動けずにいた。弾は装填されているが、急所を外せば逆上した母グマに襲われるのは確実だ。

しかし、そのとき、遠くから車のエンジン音が聞こえてきた。斉藤泰和が約束通り、仕事を終えて林道にやって来たのだ。母グマもその音に気を取られ、一瞬、視線をそらした。その隙に、赤石は車に飛び乗り、急発進でその場を離脱した。後ろで母グマの怒号が響いたが、追いかけてくることはなかった。

ヒグマからの「最後通告」

赤石は後に、この経験を「ヒグマからの最後通告だった」と振り返る。彼はそれまでに数多くのクマを仕留めてきたが、母グマのあの目は決して忘れられないという。狩猟の世界では、クマもまた人間と同じように感情を持ち、子を守るために命を懸けることを、身をもって知った瞬間だった。

知床の自然は厳しい。ヒグマは食物連鎖の頂点に立ち、人間がその領域に踏み込むとき、常に死と隣り合わせの覚悟が必要だ。赤石正男の狩猟人生は、そんな危険と隣り合わせの日々の連続だった。次回は、さらに深い山奥での体験を紹介する。