O157集団食中毒から30年、母の闘いと教訓「安全な学校給食を」
O157集団食中毒から30年 母の闘いと教訓

集団食中毒から30年、母が語る教訓

1996年に堺市で発生した病原性大腸菌O157による集団食中毒から30年となるのを前に、当時小学生の娘2人が感染した元市議の山中優子さん(70)が読売新聞の取材に応じ、安全な学校給食の実施を訴えた。山中さんは「大切な子どもの命が失われたことを忘れず、学校給食は常に安全を最優先にしてほしい」と語った。

病院で見た衝撃の光景

1996年当時、山中さんには小学1年と2年の娘がいた。7月13日に集団食中毒が公表される数日前、次女の下痢が続いたため病院を受診したが、薬を処方されたものの回復しなかった。13日のテレビニュースで学校給食が原因とみられる集団食中毒の発生を知り、O157感染の可能性を認識。血便が出た次女を連れて市内の総合病院に駆け込んだ。

そこでは、患者が殺到し待合室にまで簡易ベッドが置かれ、苦しそうな子どもであふれていた。山中さんは「血便ぐらいでは点滴だけで処置が終わり、入院できなかった」と振り返る。娘と帰宅したが症状は治まらず、懸命な看病の末、回復までに約1か月を要した。

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母親たちの悲痛な手記

食中毒の公表から約10日後、次女とは別の小学校に通っていた女児が亡くなった。山中さんは「学校給食が安全なのは当たり前のことじゃないのか」と衝撃を受けた。同じ思いを持つ母親たちと共に、1996年秋に市民団体「安全な給食を求める親の会」を設立。学校給食再開に対し、原因究明が尽くされるまでは再開しないよう要望書を提出し、弁当との選択制を実現させた。

また、食中毒の悲惨さを風化させないため、子供を看病した母親8人の手記をまとめた文集を数百冊作成し販売。手記には、腹痛で悲鳴をあげる娘の背中をさすることしかできず無力さを感じた体験や、子どもから「僕はもうだめだから先に死ぬよ。お母さんは死なないで生きていてね」と言われ涙した辛い記憶が綴られている。

市議として安全な仕組みづくりへ

2003年には「自らが安全な仕組みを築く立場になる必要がある」と考え市議選に立候補し当選。感染者の検査データなど集団食中毒に関する資料の保存を市に求めるなど、給食の安全確立に奔走した。

発生から30年が経ち、堺市は再発防止に細心の注意を払いながら給食を継続。2025年3月には衛生管理を徹底した給食センターが完成するなど、安全対策は進んだ。山中さんは「多くの保護者が給食のあり方に関わり、目を光らせてほしい」と、学校給食への関心の必要性を強調している。

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