本能寺の変の動機として現在最も有力視される「四国説」では、首謀者の明智光秀以上に深刻な立場に追い込まれた武将がいた。それが斎藤利三である。歴史評論家の香原斗志氏は、利三こそが信長を深く憎み、謀反を先導した悲運の人物だと指摘する。
四国説の核心と斎藤利三の役割
織田信長は当初、土佐を統一した長宗我部元親に対し、四国全土を自由に切り取ってよいと、明智光秀を通じて伝えていた。しかし天正9年(1581年)、信長は方針を一転。阿波の三好一族の訴えを聞き入れ、彼らに阿波を治めさせる代わりに、長宗我部との約束を反故にした。光秀は元親に方針変更を伝えるよう命じられたが、元親は膨大な労力を費やした事業の中止を拒否。信長は四国討伐を決断し、三男の信孝に準備を命じた。
この一連の流れで、光秀は信長と元親の間で苦慮したとされるが、香原氏は「光秀以上に追い詰められた家臣がいた」と強調する。それが斎藤利三である。利三は長宗我部家との「取次」(仲介役)を光秀と共に務めており、信長の度重なる方針変更に直接振り回されていた。
信長に振り回され続けた利三の苦悩
利三は長宗我部との交渉で、信長の意向を伝えるたびに難航した。信長が約束を反故にした後も、元親を説得するよう命じられたが、元親は頑として応じなかった。さらに信長は利三に対し、四国討伐の準備を急がせ、鉄砲の調達なども命じた。香原氏によれば、利三は「信長に振り回され続ける」立場にあり、そのストレスは光秀以上だった可能性が高い。
特に決定的だったのは、本能寺の変の5日前に起きた出来事である。信長は利三に対して切腹を命じた。理由は明らかではないが、長宗我部との交渉の失敗や、何らかの不手際が原因とされる。利三はかろうじて切腹を免れたものの、この命令により、信長への憎悪は頂点に達した。
謀反を先導した利三の行動
香原氏は「利三は謀反をずっと延期してきた」と語る。彼は光秀以上に信長を憎んでおり、本能寺襲撃の先鋒を務めた。実際、変の当日、利三は真っ先に本能寺に突入し、信長の首級を挙げようとしたとされる。これは、利三が長期間にわたって信長への不満を募らせ、機会をうかがっていたことを示唆する。
しかし、利三の悲劇はその後も続く。山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた後、利三は捕らえられ、処刑された。彼の家族は難を逃れたものの、利三自身は「謀反人の片割れ」として歴史に名を残すことになった。
「四国説」の再評価と利三の位置づけ
香原氏は、本能寺の変の動機を単なる光秀の私怨に還元する風潮を批判する。「四国説」は光秀だけでなく、多くの家臣が信長の暴政に苦しんでいた実態を浮き彫りにする。特に利三のような下級家臣は、光秀以上に立場が弱く、信長の意向に逆らえなかった。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも四国説が描かれたが、利三の重要性は十分に強調されていない。香原氏は「ドラマでは光秀の苦悩が中心だったが、利三の存在を無視しては真実に迫れない」と指摘する。
本能寺の変は、信長の強引な政策が招いた悲劇であり、その中で最も損をしたのは、光秀ではなく利三だったかもしれない。彼の憎悪と決断が、変の引き金を引いた一因であることは間違いない。



