戦後80年、孤児たちの体験伝える連載に読者から25通の戦争体験
戦後80年、孤児たちの体験伝える連載に読者から25通

戦争や病気で親を失った孤児たちの体験を伝える連載「戦後を生き抜く―孤児たちの81年―」を読んだ人から、手紙やメールで多くの戦争体験が寄せられた。命がけで満州(現中国東北部)から引き揚げた経験や、食糧難の生活をつづったものもあった。体験の証言者たちは「経験を伝えることで平和の尊さを感じてほしい」と願っている。

連載に寄せられた25通の手紙

連載は、8月17~21日の朝刊社会面に4回掲載した。戦地へ赴いた世代から証言を得ることが難しくなる中、戦争に翻弄されながらも生き抜いた孤児を訪ね、証言を聞いた。

その紙面で自身や家族の体験を募ったところ、25通の手紙やメールが社会部に届いた。いずれも孤児の体験ではないが、戦時下の暮らしで直面した様々な困難がつづられていた。

満州からの引き揚げを語る88歳女性

そのうちの1人で、終戦後に満州から引き揚げた兵庫県西脇市の女性(88)に会いに行った。自宅で迎えてくれた女性は「自分が体験したことが、戦争を二度と起こさない社会にするための役に立つなら」と、思いを語った。

女性は満州で生まれた。自宅には当時、珍しかった洋間があり、中国料理を食べに行ったこともある。比較的裕福な暮らしだった。そんな生活は1945年8月、敗戦で一変した。侵攻してきた旧ソビエト連邦(ソ連)の兵士から追われ、弟をおんぶし、妹の手を引いて逃げ回った。母は暴行されることを恐れて髪をそり、軍服を着て身を守った。

きょうだいと寝ていたところに、ソ連兵が押しかけてきたこともある。靴で布団の間を踏み歩き、引き出しをあさった。危害は加えられなかったが、「物音を立てたら殺されると思って怖かった」。幼心に「戦争は終わったはずなのになぜ攻撃されるの」と思った。住居を転々としながら家族で逃げ回った。食糧もなく、弟は日に日に弱っていった。茶わんを持つ力もなくなり、「本当にかわいそうだった。それでも私は食べなさい言うてね……」と語った。しばらくして亡くなり、弟の骨を拾って袋に入れ、妹が背負って歩いた。

港にたどり着き、舞鶴(京都)に向かう引き揚げ船に乗った。母と兄と妹で帰国し、戦地にいた父も数年後に帰ってきた。女性は、経理の仕事をし、結婚。子どもにも恵まれた。

戦争体験を伝えることの意義

これまで家族以外に引き揚げの体験を話したことはなかったが、今夏の連載を読んで心が動いた。戦争体験者が高齢化して少なくなる中、戦争の記憶が社会から薄れていると感じており、「戦争が起きればどうなるか。想像することで平和な世の中になってほしい」と話した。

大阪府茨木市の八崎輝義さん(93)は、戦争によって変わりゆく暮らしや学校生活をつづった直筆の手紙を寄せた。記者が自宅を訪ねると、当時の経験をまとめた模造紙を並べて説明した。

日米が開戦した1941年当時、8歳だった。軍艦や鉄砲を作るためだとして鉄を供出するように求められ、家からは鍋が、学校から鉄棒がなくなった。食糧も不足し、ひもじい思いをした。弁当の白米は半分になり、大根の茎でかさ増しされた。当時は「日本は頑張って戦争に勝とうとしている。自分も我慢しなくては」と思っていた。

授業も軍事色を帯びた。書道の時間には「必勝の信念」「特別攻撃隊」と書き、午後の授業は放水訓練やバケツリレーになった。空襲警報が出ると、授業はなくなり、家に帰って防空壕に隠れた。戦後は、製薬会社で働いた。2000年頃から毎年、地元の小学校で自身の経験を語ってきた。「私の体験を通して、何が良いか、悪いかを若い人たちが考えるきっかけにしてほしい」と話した。