「俺はもうダメだ。身体がつらすぎて、人工肛門のパウチを交換することもできない。これまで、いろいろ心配してくれてありがとう」――2023年7月末、他県で暮らす兄(当時65歳)から電話があった。兄は大腸がんの末期で、同年3月に余命6カ月を告げられ、数日前から在宅で3クール目の抗がん剤を始めていた。人工肛門のパウチ交換もできないほど衰弱しながら、なぜ訪問介護を受けていないのか。筆者が問い返すと、兄は「介護保険は使えないんだ。人工肛門になったから障害者手帳はもらえたけど」と答えた。
介護保険は40歳になると保険料の納付が始まる。40歳以上65歳未満でも、がんなどで介護や支援が必要な状態と認定されれば、介護保険サービスを利用できる制度だ。ところが、病状が急変しやすい末期がん患者は、申請しても認定が間に合わず、必要なサービスを受けられないまま亡くなることがある。兄もその一人だった。
介護保険サービスが使えない
7月3日の大学病院受診に付き添った際、兄は褥瘡(床ずれ)の痛みを訴えた。寝たきりなどで血流が悪くなると皮膚が傷つき、ひどくなれば骨が見えるほど深く損傷する。主治医は痛み止めの追加を提案し、筆者は褥瘡予防になる介護ベッドの使用を勧めたが、兄は黙って受け流した。
診察後、廊下でふらつき、壁に手をついて歩く兄の体は、以前は細マッチョだったとは思えないほどやせ細っていた。病院まで自分で車を運転してきていたことも知って驚いた。「タクシーで来ればいいのに」と言うと、兄は「ダメだよ。俺、女房に1円でも多く金を残してやりたいんだ。もう、俺のためには金を使いたくないんだよ」と話した。
兄嫁は夫の詳しい病状も抗がん剤の副作用のつらさも知らされていなかった。10歳近く年下の妻に心配をかけたくなかったためだ。兄嫁は夫婦の生活を支えるため、事実を知らないまま働き続けていた。
介護保険が使えていれば、訪問介護、介護ベッド、車いす、通院時のタクシーなどを賄うことができた。それなのに、なぜ使わなかったのか。使いたくても使えなかったのだ。電話で兄は「介護保険は使えないんだ」と告げた。
制度上は対象でも「間に合わない」
末期がん患者は病状の急変が避けられない。要介護認定の申請をしても、認定までに時間がかかるため、サービスの利用開始が間に合わないケースが多い。制度の上では対象であっても、現実には「間に合わない」のである。医療の現場でも「医師だけではどうにもできません」とされるように、認定のスピードが患者の人生を左右する。
「運用で頑張るのではなく、制度そのものを変えるべきだ」
がん患者の最期は、住む自治体の運用次第という現実がある。要介護度が軽く出やすい仕組みや、申請から認定までの時間を短縮する取り組みだけでは不十分だ。「運用で頑張るのではなく、制度そのものを変えるべきだ」という指摘がある。保険料を納め続けても、必要な時に使えなければ制度の意味は問われる。



