市川沙央さんが問いかけた「共生」の認識 もう気づかないふりしない
市川沙央さんが問いかけた「共生」の認識 もう気づかないふりしない

「共生」という言葉をそのまま使うことにためらいを感じる。きらきらした美しい言葉に、どこかうさんくささを感じるからだ。しかし、昨年、オピニオン編集部で担当した小説家・市川沙央さんの寄稿が届いた時、「うさんくさいのは、あなたではないですか?」と問いかけられているように感じた。

「共生」を掲げたイベントから障害者が消えている

市川さんの寄稿は、朝日新聞の「共生」の認識を厳しく問う内容だった。「共生」を掲げた朝日新聞のイベントや関連記事から、障害のある人の存在が消されている。手話通訳も字幕もなく、イベントが健常者による健常者のためのものになっていると指摘した。

「よりによって『共生』という言葉を簒奪(さんだつ)するとは」という市川さんの言葉が重たく残った。自分たちに都合のいい「共生」にどっぷりつかり、言葉を奪っていたのは私だ。「うさんくさい」と他人事のように言っている場合ではない。

新年企画で「障害」にテーマを絞る

市川さんの寄稿を読んで突きつけられるものがあった記者はたくさんいた。「自分は聞きやすい人の声だけ聞いていたのではないか」「『共生』のイベントに何の違和感もなかった」といった声が聞こえてきた。市川さんの寄稿がまだ記憶に新しい頃にくらし科学医療部に異動となり、ほどなく新年企画の話し合いが始まった。「共生」をテーマにした提案が複数あった。

テーマは早々に決まったが、次はこの企画でどこまで「共生」の範囲を広げるかという議論になった。外国人との共生、認知症との共生――。共生が掲げられる場面は数え切れない。結果的に新年企画では「障害」にテーマを絞ろうと決まったのは、「まずは市川さんの寄稿に、しっかり応えなければならない」という思いがあったからだ。

連載「『共生』を考える」と手話通訳の現実

連載のタイトルは「『共生』を考える」。ここでも共生には「」がついた。取材班にも社会にも、「共生」という言葉への賛否があることをふまえた。連載で取材を受けてくれた人からも、「共生という言葉を軽々しく使ってはいけない」「言葉自体を揺るがす必要がある」という話があった。

この連載をもとにした記者サロンには、初めて手話通訳がついた。ゲスト出演した日本障害者協議会代表の藤井克徳さんに、配信動画を障害のある人にも届けるためのツールを尋ねた際、「絶対に必要だ」と教えてくれた。字幕はつくのに?と思ったら「字幕と手話は別物。聴覚障害者の中でも、完全に聞こえないか難聴か、いつから聞こえないかなどによって文字か手話かが変わってくる」という。目からうろこだった。

手話通訳の金額は、数万円で済むレベルではなく、驚いた。だが、これが共生の現実なのだと思う。お金はかかるし、手間もかかる。つい「気付かなかったふり」をしたくなる。でもそうしている限り、社会はいつまでも健常者に都合のいい制度や施設や環境のまま動かない。大変でも面倒でも調整し続けた先に、「」が外れた、うさんくさくない共生が、ようやく見えてくるのではないだろうか。

「『共生』を考える」は、外国人との「共生」などにテーマを広げながら、今も読者とともに模索を続けている。