「SaaS is Dead」という言葉が一時期話題になったが、最近では鎮静化している。この主張の本質は、ソフトウェアの形態としてのSaaSが終わるという意味ではない。ビジネスの成否はモデルの名称に関わらず、「死ぬものは死ぬし、成長するものは成長する」という原理原則に従う。SaaSを主語にすること自体が、解像度の低い議論であると筆者は指摘する。
日本ベンチャーが直面する「Local × Casual」の罠
経営戦略の楠木建教授は、日本と海外のベンチャーの違いを鮮やかに整理している。海外のベンチャーは「Global × Serious」、すなわち世界市場をターゲットに、地球温暖化や難病治療、貧困問題といった社会的なシリアスな課題に対する解決策を提供する。一方、日本のベンチャーは「Local × Casual」、国内市場に特化し、既存業務のちょっとしたカジュアルな課題に対するSaaSが圧倒的に多い。
この「Local × Casual」な領域こそが、生成AIの進化によって最も危機に瀕している。特にAI SaaSは、5フォース分析で脅威を評価すると、どの脅威も高く、期待される企業パフォーマンスは低くなる。
真の脅威は生成AIではなくグローバルベンダー
筆者がマイクロソフト時代に痛感したのは、本当の脅威は技術そのものよりも、グローバルベンダーによるプラットフォームの席巻である。かつて日本にあったワープロ専用機が良い例だ。筆者は富士通出身で、親指シフトキーボードのOASYSを愛用していたが、OASYSを含めワープロ専用機は一気に姿を消した。原因はインターネットの普及とMicrosoft Officeの標準化。ネットを介したファイル交換でWord形式が世界標準となり、ネットワーク効果が働いた。さらにPCが国際互換になったことで専用機はDeadした。ワープロという機能が劣っていたわけではなく、世界標準に取って代わられたのだ。
あるAI SaaSのCEOは、今後の戒めのために古いワープロ専用機を購入し、「ツールでは淘汰されるので、これからはAIエージェントだ」と語った。しかし、筆者は原因を正しく理解していないと指摘する。
繰り返される歴史:同じ構造が「Local × Casual」で進行中
同じ構造がさまざまな「Local × Casual」領域で起きている。代表例を挙げる。
- AI-OCR:GeminiなどのマルチモーダルAIを使えば、手書きや複雑なレイアウトのPDFも高い精度で構造理解できる。
- 議事録作成:生成AIで容易に代替またはアプリケーション開発が可能なため、完全にレッドオーシャン化している。
- 電話:IP電話市場ではZoom Phoneが急速に普及。
- RPA:Microsoftがデスクトップ版を無償化したことで、有償市場は影響を受けた。
これらは日本のベンダーだけが影響を受けているわけではない。「Global × Serious」に成り切れない世界のベンダーが影響を受けている。いずれも業務の本丸ではなく、比較的狭い用事を済ます製品であり、グローバルベンダーが「ついでに」標準機能で飲み込める領域だ。
一方、日本固有の経理業務や人事業務をまるっとこなすようなSaaSには影響は及んでいない。「ド」Localは影響を受けにくい。グローバルベンダーにそこまでのリソースはないからだ。ただし、世界にビジネスを拡張できないため、株式市場で高い評価を得るのは難しい。
最先端を走るグローバルベンダーの開発力は半端ではない。数年前のGoogle翻訳機能は日本語では使い物にならなかったが、今では普通に使える。今が弱くても油断は禁物だ。グローバルベンダーが機能を標準装備し、生成AIがワークフローまで自動化する流れに飲み込まれるカジュアルなSaaSは死を待つほかない。
Deadしないための戦略的対策
対策として、戦略の再構築が必要だ。まず、グローバルベンダーが参入してくる市場を予想し、闘いを避ける。世界を目指さないのであれば、日本固有の業務で対象範囲が広い市場を狙う。グローバルベンダーの特許出願分野などを確認すれば、ある程度予測は立つ。
また、急速に成長するベンダーやスタートアップの動きを観察する。成長しているスタートアップはTOP 100などで取り上げられ、有名なベンチャーキャピタルの投資先を見るのも手だ。
そして、SaaSという商品だけでなく、他の要素も含めて戦略を作り上げる必要がある。ここではファイブ・ウェイ・ポジショニング戦略とビジネスモデル・ナビゲーターが参考になる。
ファイブ・ウェイ・ポジショニング戦略
この戦略の肝は、すべての項目で100点を目指さないこと。リソースは有限だからだ。市場で支配的な地位を築くため、5つの評価軸に戦略的にリソースを配分する。
- 価格:納得感のある価格設定
- サービス:顧客対応、手厚いサポート、ホスピタリティ
- アクセス:買いやすさ、場所の利便性、入手しやすさ
- 商品(Experience / Product):製品の品質、独自性、選ぶ楽しさ
- 顧客との絆(Value Equity):顧客との信頼関係、ブランドへの愛着
5つの要素のうち、1つの軸で市場支配(5点)、別の3つの軸で差別化(4点)、残り1つで業界水準(3点)を達成する。2点以下がある場合は市場撤退だという。
ビジネスモデル・ナビゲーター
スイスのザンクトガレン大学のオリヴァー・ガスマン教授らが開発したフレームワーク。成功事例を55のパターンに分類し、それらを組み合わせて新しいビジネスモデルを作るためのレシピ本のようなものだ。過去50年の成功ビジネスモデルの90%は既存パターンの組み合わせや応用であることを前提とする。
ビジネスモデルは以下の4要素で定義され、これらすべてが整合性を持ってつながることが重要。競合のモデルから2つを変えることで新しいビジネスモデルが作れる。
- WHO(誰に):ターゲット顧客
- WHAT(何を):提供する価値(価値提案)
- HOW(どのように):価値の創出と提供方法(サプライチェーンやプロセス)
- VALUE(なぜ):収益構造
ファイブ・ウェイ・ポジショニング戦略とビジネスモデル・ナビゲーターの組み合わせは強力だ。
現代のビジネスシーンで語られる「SaaS is Dead」の本質は、ソフトウェア形態の終焉ではなく、グローバル標準とAIによる包摂である。SaaSベンダーは戦略を再点検することをお勧めする。
(文:北川裕康)



