1966年8月5日、北京中心部、天安門近くの北京師範大付属女子中学の運動場は、文化大革命の「闘争会」の場となった。女性副校長(50)ら教員5人が「走資派(資本主義者)」などと書かれた板を首からかけられ、大勢の女子生徒から罵声を浴び、髪をはさみで切られ、頭から墨汁をかけられた。
「造反有理」と文革の発動
中華人民共和国の建国を主導した毛沢東は66年の5月、教育・文化界などから「ブルジョア階級」を一掃するとして文革を発動。8月1日、ある学校の「紅衛兵」を名乗る学生組織への公開書簡で「造反有理(反逆する理由がある)」と学校当局に反抗するお墨付きを与え、運動の拡大を呼びかけた。
副校長らは「私は牛鬼蛇神(化け物)です」と自ら叫びながら校庭を歩かされた。木の陰から飛んできた土くれが副校長に当たった。投げたのは14歳の生徒。「その場の雰囲気に高揚し、自分も『革命』に貢献しなければ、という気持ちになった」と現在、海外で暮らす女性(74)は当時の心境を振り返る。
文革で初の教育者の犠牲者
元同中生徒で文革についての著作がある王友琴氏の調査によると、副校長はその日、数時間にわたりバットなどで殴打されて死亡し、「文革で初の教育者の犠牲者」となった。宿舎前で倒れていた副校長に「死んだふりをしていやがる」と汚物を投げつける生徒もいたという。
副校長が「反革命」とされた「罪状」の一つは、地震の避難訓練で教室に掲げてあった毛の肖像を持って逃げるのか生徒に聞かれ、答えなかったことだった。「物心ついたころから『毛主席の一言は他人の一万語より価値がある』という調子で教えられ、毛は神になっていた。その毛がやれと言ったことはやる。洗脳の結果です」と元生徒の女性は語る。
10年間の内乱と迫害の規模
人民に深刻な災難をもたらした内乱として、文革はその後、中国全土を混乱に陥れ、毛が死ぬ76年まで10年間続いた。その間の死者と迫害を受けた人数に公式な統計はなく、死者数は約40万人とする内部推計説から2000万人説まである。迫害を受けた人数は1億人ともされる。
迫害は密告に基づく場合もあり、親が文革を経験した50代の男性は「相手が親でも密告する人と人の闘争の時代だった」と話す。81年の中国共産党の「歴史決議」は、文革を「党と国家、各民族・人民に深刻な災難をもたらした内乱」と断じた。