筑豊炭田閉山50年、ヤマの記憶を次世代へ 刻銘板設置や建造物保存の取り組み
筑豊炭田閉山50年、ヤマの記憶継承へ刻銘板や建造物保存

国内最大の産出量を誇った福岡県の筑豊炭田で、全ての炭鉱が閉山して今年8月で50年となる。日本の近代化を支えた地域のにぎわいは失われ、当時を知る人も少なくなりつつある中、地元では、まちに活気をもたらし、悲惨な事故も相次いだ「ヤマ(炭鉱)の記憶」を次世代へと継承する取り組みが続いている。

山野炭鉱事故から約60年、刻銘板が慰霊碑に設置

戦後2番目に多い237人の犠牲者を出した山野炭鉱ガス爆発事故の慰霊祭が5月末、嘉麻市で開かれた。全員の名前を刻んだ金属製刻銘板(縦45センチ、横170センチ)が慰霊碑の裏に設置されたことを記念し、地元の銭代坊行政区が主催した。

事故は1965年6月1日に発生。発破で噴出したガスに引火して爆発し、作業員らが一酸化炭素中毒などで亡くなった。翌年、会社が慰霊碑を建てたが刻銘板はなく、遺族の思いを受けた行政区が市に要望を重ね、約60年を経て設置が実現した。

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遺族ら約80人が参加した慰霊祭では、父親を亡くした参列者(78)が「ここに来るたびに身内や知人の名前を見つけ、感慨にふけることでしょう」とあいさつし、参列者は献花して追悼した。

事故の資料を収集してきた嘉穂地区公民館の上野智裕館長(63)は「炭鉱で働いた人々が日本の近代化と戦後復興を支えた。生きた証しが刻まれた意義は大きい」と語る。

「炭鉱の記憶がない世代ばかりに」歴史継承が課題

直方市で開かれた公開講座で約40人を前に、田川市石炭・歴史博物館の福本寛学芸員(51)は「(今後)20年もたてば炭鉱の記憶がない世代ばかりになる。歴史の継承が課題だ」と訴えた。

福本学芸員によると、筑豊炭田は1960年代にエネルギー源が石油に移る中、全国でも早く閉山が進んだ。そのため人口流出や自治体の財政悪化に直面し、「炭鉱=負の遺産」のイメージが定着した。

一方で、栄えた時代の建造物を保存する動きもある。かつて炭鉱町として栄えた直方市では、炭鉱関連の施設を文化財として登録し、観光資源として活用する計画が進められている。

筑豊炭田の閉山から半世紀。影と光、両方の記憶を次世代にどう伝えるかが、地域の大きな課題となっている。

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