血友病の治療薬「エミシズマブ」を開発した中外製薬の服部有宏・元シニアフェロー、北沢剛久・研究本部副本部長、井川智之・同本部長が、米国最高の医学賞「ラスカー賞」の臨床医学賞を受賞した。血液を固める働きを抗体に代替させる斬新な発想が出発点だったが、開発中止のどん底にも直面した。米ニューヨークでの授賞式後、これまでの道のりを3人に聞いた。
開発の発想と経緯
服部さんは「原点は患者の医療ニーズです。出血が止まりにくくなる血友病Aの患者の血中では、血液を固める反応を助けるたんぱく質が不足したり、十分に働かなかったりしています。そこで、この機能を抗体で代替できないかと考えました」と語る。研究は2002年に北沢さんらと始め、2004年に井川さんも加わった。
開発中止からの再挑戦
服部さんは「2005年に最初の開発候補となる、活性の強い抗体を選定しました。ところが動物実験で投与すると、明確な止血効果を示せず、副作用も現れたため、2006年に開発中止となりました」と振り返る。「当時、私は46歳でした。薬ができるまでに通常、15年ほどかかります。『自分が現役の間には薬を作れないかもしれない』と落ち込みました。しかし、1週間すると、『自分たちが開発を諦めればその先はない』『もう一度やろう』と思い直しました」と述べ、再挑戦を決意した。
北沢さんは「すでに『0から1』のところ、つまり、基本概念が成り立つことは見えていました。だから、うまくいかなかった時も『どこかに見落としがあるはずだ』と考え、再挑戦しました。最終的には約4万種類もの抗体を調べることになりました」と説明する。
チームワークと患者の存在
井川さんは「仲間はすごく大事です。創薬は1人ではできませんが、ただ人が集まればいいわけでもありません。違う専門性を持つ人たちが、互いを『仲間だ』と思って進められるプロジェクトがうまくいくことを学びました」と語る。服部さんは「研究結果が出たら、皆で議論する。それが非常に大切でした。失敗を隠すのではなく、なぜダメだったのかと一緒に悩み、次の手を考える。その積み重ねが大切だったと思います。いい結果が出た時も、うまくいかない時も、夜に居酒屋に出かけ、議論することもありました。チームは、本当にいい仲間でした。合言葉は『世のため、患者さんのため』でした。そして何より、患者さんの笑顔が最高の賞です」と述べた。
授賞式では、北沢さんは「エミシズマブの臨床試験に参加されたニューヨーク在住の患者さんの姿もありました。授賞式後、『エミシズマブのおかげで生活が改善した』との感謝の言葉をいただき、胸に迫るものがありました」と語った。井川さんは「私たち研究者は普段、患者と直接話す機会があまりありません。私たちも感謝の言葉を伝えました。本当にうれしかったです」と述べた。
創薬の未来と日本の課題
AIと創薬について、北沢さんは「AIにはものすごい力がありますが、世の中に存在する情報や知識を基に、より良い解を探していく道具です。エミシズマブのように、誰も考えたことのなかった発想を生み出すところは、人間の仕事です。私たちはイノベーターであり、自分自身で医療の未来を作っていく。その気概が大切です」と語る。
日本の創薬環境について、井川さんは「日本の研究者のレベルが欧米に負けているとは全く思いません。非常に優秀な人材が大学で育っています。ただ、研究資金は欧米と比べて1桁ぐらい少ないのではないかと感じます。その中でも成果を出しているので、もう少し資金があればさらに良い研究ができるでしょう」と指摘する。服部さんは「日本のアカデミア(学術機関)の研究は本当に素晴らしいです。ただ、学術研究と創薬は同じではありません。大学の先生に『どうぞ薬を作ってください』と依頼しても難しいでしょう。産業界の人間がもっと入り、アカデミアと企業を橋渡しする仕組みを作る必要があります」と述べた。
今後の展望
今後の展望について、服部さんは「エミシズマブによって血友病の患者さんの生活の質の向上に貢献できたと実感しています。中外製薬を退職した後、今は一般社団法人日本国際創薬エコシステム協会のメンターを務めています。これからも研究者と一緒に仕事をしていきます」と語る。北沢さんは「誰も想像しなかった医療を、自分たちで作っていく研究文化を次につなげていきたいです」と述べ、井川さんは「エミシズマブ開発で経験したこと、そこで培われた研究所の組織風土を大切にしながら、患者さんの人生を変えられるような医薬品をさらに生み出したいです」と抱負を語った。



