横浜高・村田監督が著書「甲子園に生きる」刊行、恩師の一言が原点
横浜高・村田監督が著書「甲子園に生きる」刊行

今夏の甲子園で横浜高校を4強に導いた村田浩明監督(40)が7月、著書「甲子園に生きる」(日本写真企画)を刊行した。指導者を目指した原点や村田監督流のチーム作りについて本人が語った一冊で、刊行に合わせた読売新聞のインタビューでこれまでの野球人生を振り返った。

恩師の一言が運命を変えた

かつて横浜の主将として甲子園に立った村田監督。高校3年だった2004年夏、甲子園の準々決勝で駒大苫小牧に敗れると、ベンチで隣に立っていた当時の渡辺元智監督から「お前はここに戻って来いよ」と声をかけられた。その瞬間はぴんと来なかったが、この言葉が後の運命を動かした。

渡辺さんの勧めで日本体育大へ進学し、在学中に横浜のコーチも務めると、その背中を追うように高校野球の指導者を目指した。「何十年も出場できていない公立校を甲子園に連れて行けたらすごいぞ」。大学卒業後、村田監督はそう意気込んで県立高の体育教師の道を選んだ。

公立校での指導者デビュー

13年秋、県立白山高校で監督デビューした。当初、部は4人しか練習に来ないような弱小だったが、村田監督自ら学校中の生徒に声をかけて部員集めをし、翌年春から何とか公式戦へ出場。18年夏には、記念大会で南北に分かれた県大会で北神奈川の8強にまで育て上げた。

19年ごろから渡辺さんにその手腕を評価され、「お前しかいない」と横浜の監督就任をたびたび打診された。迷った末、コロナ禍で夏の甲子園が中止になった20年に就任したが、名門の監督が背負う重圧は想像以上に大きかった。21、22年は夏の甲子園に出場できたものの、「(渡辺)監督さんが築き上げてきた横浜野球を再現することばかり考えて、自分の色を全く出せていなかった」と振り返る。

チーム改革と人間的成長へのこだわり

23年からは2年連続で春夏ともに聖地への切符をつかめなかった。24年夏の県大会決勝で東海大相模に敗れると、「今までのやり方を変えよう」と吹っ切れた。自分を追い込んでまで練習に打ち込む選手が多かったが、かえってコンディションの悪化につながっていた。長時間練習をやめ、グラウンド内に接骨院を開き、選手の状態を整えるように努めた。一方、「負けてからではなく、勝って反省しよう」といった渡辺監督時代からのイズムは継承した。

選手たちには、野球さえうまければよいという姿勢ではなく、常に人間的な成長を求めている。今夏の甲子園で躍動し注目を集める織田翔希投手(3年)が2年生の時、取材で「めちゃくちゃ」という言葉を使ったことがあった。「大谷翔平選手がインタビューでそんな言葉を使うか?」と諭した。その後、織田投手は言葉遣いに関する本を自ら購入し、寮で読んでいたという。「将来、大きな世界で活躍してほしいからこそ、社会で即通用する常識をここで身につけさせる」と村田監督は語る。

恩師への恩返しを胸に

著書は、40歳の誕生日を迎えた7月に出版。タイトルは、これまでの村田監督の半生を真っすぐに言い表した。「思いが伝わらなかったり、勝ちたいときに勝てなかったり。つらいことも多いけど、ここまでがんばってこられたのは甲子園があるから」と笑う。

今年で就任7年目だが、すでに春秋の関東大会や明治神宮大会、昨春の選抜大会で優勝を経験した。未到は夏の甲子園優勝のみとなった。甲子園期間中の今年8月には、渡辺さんの突然の訃報も届いた。「高3の夏、監督さんがあの一言をかけてくれなかったら、今の自分はない。感謝しかない。残す夏の甲子園優勝を果たすことが、最大の恩返しになるかな」。恩師への思いを胸に、まずは新チームで秋の関東大会の頂を目指す。