紀伊水害15年、深層崩壊の現場で記憶継承 田辺・那智勝浦で慰霊
紀伊水害15年、深層崩壊の現場で記憶継承 田辺・那智勝浦

発生から15年を迎えた紀伊水害で、和歌山県田辺市伏菟野地区は被害が大きかった場所の一つだ。地表から深い部分の岩盤ごと山が崩れる「深層崩壊」が発生し、流出した大量の土砂で5人が犠牲になった。復旧工事が完了した崩落の跡地では桜などが植えられ、当時の住民らはあの日の記憶を胸に歩みを進めている。

間一髪で逃げ延びた住民の記憶

当時27歳で、自宅が土砂崩れに巻き込まれながらも間一髪で逃げ出せた保育士の田ノ岡亜紀さん(42)=上富田町=は「予想もできないことが突然起きる、災害の恐ろしさを実感した」と振り返る。

2011年9月3日の夜。伏菟野地区にはたたきつけるような激しい雨が降っていた。田ノ岡さんは当時交際中だった夫の慎也さんと自宅の離れで過ごしていた。慎也さんは道路の冠水で帰宅できなくなり、田ノ岡さん宅に泊まっていたという。一帯は停電し、ろうそくの明かりだけが頼りだった。

Pickt横長バナー — Telegram用の共同買い物リストアプリ

深夜眠りかけていた時、「ドーン」という大きな音とともに、離れに何かがぶつかったような衝撃を感じた。屋根や壁がミシミシときしみ、慎也さんに「おかしい。外に出よう」と促され、母屋で寝ていた両親を連れて寝間着のまま、真っ暗な庭に飛び出した。

その直後、離れは音を立てて横に倒れ、母屋も屋根ごと崩れた。何が起きているのか理解できないまま近くの倉庫に避難し、その後、消防団に救助された。

失われた日常と、続く備え

翌朝、自宅があった場所を訪ねると、自宅は土砂に埋もれて見る影もなく、家具は壊れ、大切にしていた友人らとの思い出の写真もなくなった。近くの山は茶色い岩盤がむき出しになっていた。付き合いのあった近所の人たちは命を落とし、「ショックで、夢を見ているように現実感がなかった」。

田ノ岡さんは仮設住宅での暮らしを経て、慎也さんと結婚し、地区を離れた。水害以来、自宅では常に非常用の物資を備蓄し、小学2年の息子にも折に触れて被災体験を伝えている。「海や山は今は穏やかでも、いつ何が起きるか分からない。災害時に命を守る行動をすぐに取れるよう、備えていきたい」

植樹と講演で記憶を未来へ

伏菟野地区では水害の3年後から、地元住民らが深層崩壊による土砂崩れの跡地に桜やモミジの植樹を始めた。今では春になると、400本余りのソメイヨシノやクマノザクラなどが咲き誇り、あの日の〈傷痕〉を彩る。

当時の区長で、樹木の手入れを続けている谷口順一さん(77)は「水害の影響もあり、この15年で過疎化が一気に進んだ。高齢の住民が多く、記憶の風化も感じる」と語る。それでも谷口さんは年に数回、自身の体験を各地で講演し、語り継いでいる。「植樹も講演もできるだけ長く続けたい。そうすることで、少しでも多くの命が助かると信じている」

那智勝浦町で慰霊の行事

29人の死者・行方不明者が出た那智勝浦町では午後1時半から、町主催の慰霊の行事が紀伊半島大水害記念公園で営まれた。堀順一郎町長や遺族ら約30人が黙とうした後、慰霊碑に向かって白いカーネーションを献花した。

公園には午前1時頃にも遺族ら約10人が集まり、手を合わせて家族を悼んだ。妻(当時51歳)と娘(同24歳)を亡くし、当時は町長だった寺本真一さん(73)は「15年の月日がたっても、あの日から時間が動いていない。昨日のことのように思い出す」と心境を明かした。自宅が天井近くまで浸水したという丸亀里志さん(52)は「ここで起きたような災害は、多くの地域で起こりうること。対岸の火事だと思わないでほしい」と訴えた。

Pickt記事後バナー — 家族イラスト付きの共同買い物リストアプリ