1973年春、広島電機大学付属高校(現・広島国際学院高校)で週に1度の朝鮮語の授業が始まった。教室には40人の生徒がいた。講師を務めたのは、朝鮮学校教員の姜周泰さん(87)だ。
この授業は、1970年末の集団決闘騒ぎを機に、教員有志が近くの広島朝鮮中高級学校(当時)との関係改善を目指して始めたもの。朝鮮学校の教員を講師に招くことで朝鮮学校側も歓迎した。
日本の高校で教えるための条件
朝鮮学校の教員が日本の高校で教えるには「日本の高校と、日本にある2年制以上の専門学校の卒業資格」が必要だった。しかし、日本の高校を出ているのは姜さんただひとりで、ほかの教員は日本政府が正式な「学校」と認めない朝鮮学校の卒業生だった。
広島県教育委員会は、姜さんが東京の朝鮮大学校で朝鮮語を修めたことも考慮し、72年に朝鮮語の高校助教諭免許を与えた。
授業で伝えたかったこと
姜さんは授業の前に、自身の人生を語り、「語学よりもまず先に、朝鮮人のことを少しでも理解してもらおう」と話したという。
韓国系の民族団体・在日本大韓民国民団(民団)などが警戒したが、電高の教員、豊永恵三郎さん(90)が幹部と話して一定の理解を得た。
朝鮮学校の校長は、電高に派遣する講師に当時30代だった姜さんを推薦した。候補は事実上、ほかにいなかった。



