県遺族連合会副会長の大久保さん、戦死した父の思い胸に平和の語り部として活動
県遺族連合会副会長、戦死した父の思い胸に平和語り部

県遺族連合会副会長の大久保清市さん(82)は、戦死した父への思いを胸に、戦争の悲惨さや平和の尊さを若い世代に伝えようと活動している。県遺族連合会は昨年から「平和の語り部事業」を始め、大久保さんもその一員として県内の小中高校で講演を行っている。

二度の召集と父の最期

大久保さんは1944年3月に生まれた。その数か月後、父・清作さんはビルマ(現ミャンマー)に出征し、戦死した。そのため、大久保さんは父親の顔を写真でしか知らない。

清作さんは日中戦争が始まった1937年、中国大陸へ出征し、約1年後に負傷兵として日本に復員した。その後、青年学校で訓導として教壇に立ったが、戦況の悪化に伴い、けがの影響が残っていたにもかかわらず再度召集がかかり、ビルマへ赴いて帰らぬ人となった。

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戦後、母親は大久保さんにほとんど戦争の話をしなかったが、清作さんから届いた手紙には「生きて帰れるのは奇跡。今度会うときは靖国で会おう」と書かれていた。大久保さんは「父を含め、戦地に行く人たちは戦況がどれだけ悪化しているのかをよくわかっていたのだろう」と推し量る。

最期の地・ミャンマーで

大久保さんは2008年、ミャンマーを訪れた。空気はほこりっぽく、道路は未舗装のままで、子どもたちは汚れた紙幣を握りしめ、はだしで駆け回っていた。その光景は、焼け野原となっていた終戦直後の日本の姿を思い起こさせた。

「戦後、約60年たってもこの状況だ。当時はもっとひどかったのでは。こんなところで父は亡くなったのか」。大久保さんはショックを受け、ぼう然と立ち尽くした。

若い世代へつなぐ

遺族が高齢となる中、日本遺族会は国の支援も受けながら、平和の語り部事業に力を入れ始めている。大久保さんも県内の小中高校で講演を開き、自身が館長を務める県平和記念館(鯖江市)の見学者へ展示の内容や自分の経験について伝えてきた。

今月6日には、大学で戦争について学んでいる滋賀県東近江市の女性1人が来館した。大久保さんが「当時ビルマでは、食料は現地調達で、寝ることもままならなかったようだ。戦地では死んだらおいてけぼりだった」と話すと、女性は「遺族の方から直接聞く戦争の話は、教科書で学ぶよりも重みを感じた」と聞き入っていた。

県遺族連合会の遺族らは1975年の約2万6000人から、現在は約7700人に減っている。戦争の記憶をどう継承していくのかが課題だ。「戦争のむごさや、日本が戦争で苦しんだ時代があったことをきちんと知ってほしい」。大久保さんはそう願い、今日も伝え続けている。

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