被爆し工場の下敷きになった姉、高熱や発疹に苦しみ「消えるように」亡くなった 長崎の女性が語る
被爆し工場の下敷きになった姉、高熱や発疹に苦しみ亡くなる

長崎市の村上仁子(きみこ)さん(97)は16歳の時、長崎原爆に遭い、一つ上の姉、幸子さんを1か月後に亡くした。被爆後に高熱や発疹に苦しみ、学校の先生になるという夢をかなえられなかった姉を思い、「苦しむ姉の姿が今も浮かぶ。核兵器は絶対反対」と語気を強める。

原爆投下前の暮らしと姉の被爆

村上さんは旧土黒村(現・長崎県雲仙市国見町)出身で、7人姉妹の四女。当時は県立島原高等女学校4年生で、戦時中で「授業なんてなかった」と振り返る。原爆投下前は学徒動員として川棚の海軍工廠(こうしょう)で魚雷を作っていたが、発熱して実家に帰省していた。

1945年8月9日、飛行機の燃料に使うためだと言われ、地元で松ヤニを採集していた時だった。長崎市方面に「長く尾を引く丸い煙」が見えた。「あれは何だろう」。当時は、それが原子爆弾によるものだとは分からなかった。

姉の帰宅と急激な容体悪化

姉の幸子さんは同県諫早市の長崎青年師範学校に通い、三菱長崎兵器製作所大橋工場に駆り出されていた。爆心地から1.3キロだった。翌日、幸子さんの「重傷」を伝える電報が届いた。姉を捜すため、家族と浦上方面を目指して歩き、入市被爆した。「どこがどこかわからなくなっていた」といい、姉も見つからなかった。諫早駅周辺は「死体を運ぶ人がいて、修羅場だった」。

数日後、幸子さんがひょっこり自宅に戻ってきた。げたとわら草履を片方ずつ履き、手などにやけどを負っていた。話を聞くと、原爆で崩れた工場の下敷きになったが、何とか抜け出し、川で水を飲んだ後に芋畑で倒れたが、目が覚めると川棚の寺に運ばれていたという。

無事に再会を喜んだのもつかの間、幸子さんの体調が急激に悪化。体に赤い斑点が現れ、高熱に苦しんだ。医師からは「どうしていいかわからん」と言われた。

教師の夢かなわず、1か月後に死去

翌春から、学校の先生になるのを楽しみにしていた幸子さん。つかむとバサッと抜けていく髪の束を見て「髪をいじらないで。学校の先生になりたいとさ」と訴える姿を、村上さんは忘れられない。

原爆投下から1か月後、幸子さんは亡くなった。その日の姉はごきげんで、「荒城の月」を口ずさんでいた。上あごが腫れ、言葉になっていなかったが、「そのまま消えるように、あの世に行ってしまった」。当時は病気の原因が分からなかったため、母は姉の物を全て燃やした。

戦後の歩みと核廃絶への願い

戦後、数年間は学校の教員を務め、その後、華道の道に進んだ。海外にも行き、生け花の魅力を伝えてきた。3人の子どもにも恵まれたが、周囲に自身の被爆体験を語ることはあまりなかった。だが、核兵器廃絶への願いは持ち続けてきた。

「生きとったらどんなお姉さんになっとったやろうね――」。姉の写真が飾られた仏壇の前で、話をするのが日課だ。

「原爆による苦しみを知る人なら、核兵器は絶対だめだと言うはず。原爆の恐ろしさを学んで、みんなで力を合わせて、核廃絶に向けて声をあげてほしい」と願いを語る。(西山怜花)