太平洋戦争中の1944年、沖縄から長崎に向かっていた学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦に撃沈されてから、22日で82年となった。那覇市の阿嘉宗徹さん(96)は、犠牲になった2歳下の妹の面影を求めて戦後を生きてきた。「あんなつらい出来事はもう繰り返してはならない。命ある限り、この思いをつないでいく」と誓う。
朗らかで、みんなにかわいがられる妹だった
「朗らかで、みんなにかわいがられる妹だった。生きていたら、今頃、きょうだいで話に花を咲かせていたかな……」。7月下旬、対馬丸の悲劇を今に伝える那覇市の対馬丸記念館。学童や引率教員、船員ら400人超の顔がずらりと並ぶ展示室の一角で、阿嘉さんがつぶやいた。
りりしい表情で前を見つめるおかっぱ頭の妹・幸子さん(当時11歳)の写真も飾られている。疎開前のクラスの集合写真が「遺影」になるとは思いもしなかった。
軍艦だから安全と説得され
対馬丸で100人以上が犠牲となった甲辰国民学校(那覇市)の6年生だった幸子さん。疎開先では汽車に乗り、雪を見たいと胸を躍らせていた。「さらば沖縄よ また来るまでは♪」。軍歌の替え歌を口ずさんでいた姿が、阿嘉さんの脳裏に焼き付いている。
対馬丸が出港した8月21日の朝、はしゃぐ幸子さんに「気をつけて行っておいでね」と声をかけたのが最後になった。両親は当初、「米軍に狙われるのでは」と反対していたが、教師からたびたび「軍艦だから安全」と説得されて送り出した。



