織田信忠は凡庸な二代目ではなかった:信貴山城を10日で攻略した実力
織田信忠は凡庸な二代目ではなかった:信貴山城攻略の実力

織田信忠(のぶただ)――戦国史に興味がある人なら、その名を一度ならず耳にしたことがあるだろう。「天下人」織田信長の嫡男であり、信長も認める後継者だった。しかし、名前は知られていても、具体的な実績や人物像を知る人は少ない。その事績に比して知名度が低いことが影響している。

凡庸な二代目という誤解

かつては徳川家康の長男・信康と比較され、能力が劣るという評価もあった。信康は天正7年(1579年)9月に自害したが、その命令を下したのは信長だという見方も存在した。信長は信忠よりも優秀な信康を処断することで、次代の信忠の世を安泰にしようとしたという説である。しかし近年の研究では、信忠の実績が再評価され、こうした見方は支持されなくなっている。実際、信忠は信康が自害した天正7年までに、信康とは比較にならないほどの戦功を挙げていた。他の戦国大名と比べても見劣りしない。

信忠は決して凡庸な二代目ではなかった。本能寺の変で信長に殉じたが、もし生き延びていたなら、どれほどの成長を遂げたのだろうか。その大成した姿を想像するのは楽しみな武将の一人である。総合的な能力の判断は難しいが、合戦においては当時最大規模の軍団を指揮するなど、稀有な経験を積んでいた。

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信貴山城攻略:10日間の電撃戦

天正5年(1577年)8月、戦国の梟雄・松永久秀が信長に謀反し、難攻不落の信貴山城に籠城した。信長にとっては深刻な危機であった。当時、西国では毛利氏が将軍・足利義昭を奉じて上洛準備を進め、北国では上杉謙信が北陸を南下する勢いを見せ、東国では武田勝頼が巻き返しを図り、南方では大坂本願寺が抵抗を続けていた。長引けば「織田政権」の崩壊にもつながりかねない状況だった。

そんな中、信忠が総大将となって織田軍を率い、わずか10日ほどで信貴山城を攻略した。この武功は、信長の天下統一過程の一戦として軽視されがちだが、喧伝される羽柴(豊臣)秀吉の武功と比べても遜色ないものだった。この功績により、信忠は従三位左近衛中将に叙任されている。

信長の後継者として

信長は信忠を後継者として公言しており、天下を譲る考えだったとされる。もし本能寺の変がなければ、信忠は信長の後を継いで天下人となっていただろう。しかし、天正10年(1582年)6月2日、明智光秀の謀反により本能寺で信長が討たれ、信忠も二条御所で自害した。享年26歳。

和田裕弘氏は著書『織田信忠――天下人の嫡男』(中公新書)で、信忠の実績と人物像を詳述している。同書は、信忠が単なる「信長の息子」ではなく、独自の能力を持つ武将であったことを明らかにしている。

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