本能寺の変で信忠はなぜ逃げずに戦ったのか?26歳で切腹した信長嫡男の最期
本能寺の変で信忠はなぜ逃げずに戦ったのか?26歳で切腹

NHKの大河ドラマ『豊臣兄弟!』で織田信長(小栗旬)の長男・信忠を小関裕太が演じているが、実際の信忠の最期はどのようなものだったのか。戦国史研究家の和田裕弘氏は著書『織田信忠――天下人の嫡男』(中公新書)で、本能寺の変当日の信忠の行動を詳細に描いている。

本能寺の変、信長・信忠最期の日

天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変が勃発した。この日は織田信忠の最期の日でもある。日本史上の大事件として知名度は高いが、焦点は明智光秀の動機に当てられることが多い。しかし、和田氏は信長と信忠の最期の行動にも注目すべきだと指摘する。

当時、織田家の天下統一は目前に迫っていた。東国では武田氏を滅亡に追い込み、越後国も間もなく服従する見通しだった(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)。東北では伊達家をはじめ多くの大名が誼を通じ、敵対する大名はいなかった。関東でも北条氏が靡き、あからさまに歯向かう大名は存在しなかった。

Pickt横長バナー — Telegram用の共同買い物リストアプリ

関東から東北にかけては上野国に入った滝川一益が管轄し、北陸方面軍の柴田勝家と連携しながら上杉景勝を追い詰めていた。上杉氏は滅亡寸前であり、景勝も覚悟を決めていたほどである。

天下統一目前、光秀はいつ決断したか

西国では毛利氏が敵対していたが、一門衆から織田家への内通者が出るなど内部分裂が始まり、水軍の主力である村上氏も羽柴秀吉の工作で分裂。残る道は滅亡か降伏しかなかった。四国では長宗我部氏と決裂し、三男信孝を総大将とした四国渡海軍の派遣準備が進められていた。彼我の軍事力比較では、長宗我部氏を屈服させるのは困難ではなかったと思われる。

九州では大友氏が誼を通じ、島津氏も信長を上位権力者と認め、信長の威令に靡く姿勢を示していた。龍造寺氏も織田家に音信しており、九州攻めの必要はなかった。信長は基本的に敵対しない限り攻撃を加えないので、緩やかな統一は間近に迫っていた。

明智光秀は、徳川家康一行の接待を終え、羽柴秀吉の援軍要請に応じるため西国へ出陣する準備として、領国の近江坂本を経由し、5月26日に丹波亀山城へ帰国。28日には愛宕山へ参籠し、西坊で連歌を興行した。発句は有名な「ときは今あめが下知る五月哉」である。「下知る」は「下治る」とも解釈され、天下を統治するという意味に取られる。

光秀は6月1日夕刻、信長の閲兵を受けるためと偽って亀山城を出陣した。明智家の家老である明智秀満、同次右衛門、藤田伝五、斎藤利三、三沢(溝尾)庄兵衛の5人に謀反を諮り、賛意を得た。女婿の秀満には事前に内談していたともいう(『政春古兵談』)。

信長は最初、息子たちを疑った?

和田氏は、本能寺の変の不意打ちで大軍に囲まれた信長が、最初は信忠の謀反かと疑ったという説もあると指摘する。信長は20~30人の小姓だけを連れて本能寺に滞在しており、無防備な状態だった。光秀の軍勢が本能寺を襲撃したとき、信長は「これは信忠の謀反か」と叫んだという伝承が残っている。

しかし、実際には信忠は京都の妙覚寺に滞在しており、本能寺襲撃の知らせを聞くと、すぐに行動を開始した。信忠は当初、京都を脱出して安土城へ向かうことも考えたが、最終的には二条城に籠城することを選んだ。

京都を脱出するか、籠城するか

信忠は本能寺の変を知らされると、家臣たちと協議した。脱出して安土城に戻り、反撃の態勢を整えるという意見もあったが、信忠は二条城に籠城する道を選んだ。和田氏は、この判断が信忠の運命を決めたと分析する。

Pickt記事後バナー — 家族イラスト付きの共同買い物リストアプリ

二条城は当時、築城から間もなく、防御施設は整っていなかった。信忠の軍勢は約1500人。一方、光秀の軍は1万数千と推定される。圧倒的な兵力差の中、信忠は籠城を決断した。

二条城籠城を選んだのは不運か

和田氏は、信忠が二条城籠城を選んだのは不運だったと評する。もし脱出に成功していれば、信忠は織田家の後継者として光秀を討つことができたかもしれない。しかし、信忠は父・信長の死を知り、自らも戦う道を選んだ。

籠城戦は激しさを増し、信忠は自ら刀を振るって明智の兵を斬りまくった。最期は26歳で切腹。遺体を隠すように命じたという。信忠の最期は、戦国武将としての誇りと、父への忠義を示すものだった。

和田氏は、信忠が「最後に明智の兵を斬りまくった」と記述。信忠の奮戦は、多くの敵兵を倒したと伝わる。