NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第27回(2026年7月12日放送)で、ついに本能寺の変が描かれた。炎上する本能寺の中で、織田信長が死の間際に走馬灯のように弟・信勝(信行)の亡霊を見るという演出が視聴者の注目を集めた。もちろん、信長の最期を実際に見た者はいないため、これは完全な創作である。しかし、この場面は信長という人物の本質を鋭く突いている可能性がある。
信長が死の間際に見たもの:弟の亡霊ではなく、自らが敷いたルール
ルポライターの昼間たかし氏は、最新論文などを基に、信長が最期に真正面から向き合うべきだったのは弟の亡霊ではなく、自らが織田家に敷いた一つのルールだったと指摘する。それは「疑わしい者は、証拠の有無にかかわらず消す」という非情な掟である。このルールは信勝一代で終わらず、その息子・信澄にまで二代にわたって適用されたという悲劇があった。
信長の寛大さと非情さの境界線
ここで誤解してはならないのは、信長は実際には寛大な人物だったという点だ。裏切り者であっても、実際に兵を挙げて敗れた相手には驚くほど甘い対応を見せている。代表的な例が松永久秀である。1572年の最初の謀反では、多聞山城の明け渡しであっさり赦免された。5年後の二度目の謀反でも、信長はいきなり攻め込まず、まず側近を派遣して理由を尋ねさせ、最後まで「名物茶釜を渡せば命は助ける」と交渉の窓口を開け続けた。久秀がそれを拒否して自害したのは、信長が非情だったからではなく、久秀が意地を張り通した結果に過ぎない。
荒木村重の場合も同様である。1578年に有岡城で謀反を起こすと、信長は明智光秀や松井友閑らを説得に送り、失敗すると羽柴秀吉を加えて再交渉、さらに決裂すると黒田官兵衛まで送り込んだ。数カ月にわたって翻意を促す使者を送り続けたのである。つまり、実際に兵を挙げた相手には、信長は気長に交渉のドアを開けておく。負けた敵、旗幟を鮮明にした敵には、むしろ甘いとさえ言える。
旗幟を鮮明にしない弟・信勝は許容できないタイプ
ところが、疑わしい相手に対しては態度が一変する。久秀や村重は「何をしたか」がはっきりしているため、信長も交渉や条件闘争という次の手を打てる。しかし、そうではない場合、信長の態度は苛烈になる。旗幟を鮮明にしない、白黒つけない、煮え切らない――考えを読めない状態で疑いだけがくすぶり続ける相手を、信長は容認できなかった。弟の信勝は、まさに信長が許容できなかったタイプの典型例だったという。
兄弟対立の種をまいた父・信秀
兄弟対立の原因は、父・織田信秀にあったとされる。信秀は、信長に家督を継がせた後も、信勝に末森城と重臣・柴田勝家らを与え、事実上、信長と対等に近い地位を認めた。これが「父の居城と重臣を丸ごと弟が継承した」と見える状況を生み、信長の不満を募らせた。信長はこの枠組みから離脱し、権力基盤をゼロから作り直すことを余儀なくされた。清洲城を拠点に新たな家臣団を形成し、弟に依存しない体制を築いたのである。
信澄を生かしたのは「正統性」のため
信勝を討った後も、信長はその子・信澄を処断せず、重臣として重用した。これは、信澄を生かすことで「織田家の正統性」を傷つけないためだったと考えられる。信澄は城も家臣団も持たなかったため、信長にとっては安心して使える存在だった。しかし、本能寺の変の際、信澄は明智光秀に協力したとの疑いをかけられ、信長の嫡男・信忠によって殺害される。信澄は無実でありながら、二代にわたって「疑わしい者は消す」というルールの犠牲となった。
二つの「物語」が示す織田家の家風
昼間氏は、信長と信勝の関係、そして信澄の悲劇は、織田家の「家風」を象徴する二つの物語だと結論づける。それは「疑いを徹底的に排除する」という冷酷な論理であり、信長自身もその呪縛から逃れられなかった。本能寺の変で信長が死の間際に見たのは、弟の亡霊ではなく、自らが作り上げたこのルールの反映だったのかもしれない。



