戦争で父を失った紀北町戦没者遺族会の細野基曽一(きそかず)会長(86)は、地元の小学校で平和学習に関わり、戦争の悲惨さを伝えてきた。戦後81年となる今年は7日の三重県戦没者追悼式で、遺族の一人として自身の体験を語ることになっており「戦争を伝えられる最後の世代として責任を果たしたい」と話す。
4歳で体験した戦争の記憶
上空を飛ぶB29の轟音(ごうおん)、けたたましく鳴り響くサイレン、メガホンで「警戒警報発令」と叫び、走り回る住民――。当時、4歳だった細野さんが疎開先の伊勢市で体験した戦争の記憶だ。終戦後もしばらくの間、正午を知らせるサイレンの音が怖かったのを覚えている。
大阪で生まれ、親戚を頼って伊勢市に疎開したが、1944年12月、三重県南東沖を震源とする昭和東南海地震で家が半壊。母と2人の弟と一緒に紀北町の母の実家に避難し、終戦を迎えた。父は沖縄で戦死した。
苦しい生活と家族の絆
母の実家には子だくさんの伯父一家もおり、15人が一つ屋根の下で暮らした。生活は苦しく、居づらくなった母は、伊勢市に住み込みで働きに出た。細野さんと2人の弟は、それぞれ別の親戚に預けられることになり、細野さんは「嫌や、嫌や」と母にしがみついたという。
戦後の食糧難は深刻で、預けられた同市の親戚宅では、重湯のようなおかゆばかり。食事がない日もあり、水を飲んで空腹を紛らわせたこともあった。しかしある朝、空腹で目覚めると、お膳に山盛りのカレーライスが置かれていた。コメは母が分けてくれたものだった。「今まで食べた中で、一番おいしいカレーライスだった」
学びへの憧れと平和への思い
高校1年になるとようやく生活が安定し、弟と家族4人で暮らせるようになったが、家計を助けるために高校を中退。建具屋に弟子入りし、20歳代で紀北町に戻って木工所を始めた。
58歳の時には沖縄を訪れ、平和の礎(いしじ)に刻まれた、父の名前を見つけた。父の記憶はなかったが、胸がいっぱいになり、涙が出たという。
ただ学業への憧れが捨てきれず、働きながら定時制高校に通い、59歳で念願の大学進学を果たした。学費が払えない時、援助してくれたのは母だった。「母は子どもたちに十分学ばせることができず、後ろめたく思っていたのかもしれない」と推し量る。
争いが絶えない世界情勢を前に思い起こすのは、母校の伊勢市立倉田山中学校の校歌だ。「学び知る正しき心 今こそ立て 世界の前に」。歌詞を口ずさみながら「今こそこの精神を大事にしてほしい」と訴えた。



