現在の福岡県の県域が1876年(明治9年)に確定してから、今年で150年の節目を迎えた。九州歴史資料館(福岡県小郡市)で開催中の企画展「福岡県ができるまで」などから、九州北部の県域が定まるまでの紆余曲折をたどる。
廃藩置県から3府72県へ
現在の福岡県域は江戸時代、外様の福岡、久留米、柳河(柳川)と、譜代の小倉の4藩、その支藩などで構成されていた。これらの藩によって定められていた行政区域は、明治改元後の約8年間にめまぐるしく変わる。新政府が強力な中央集権国家の確立を目指したためだ。
1871年7月の廃藩置県は、明治維新における最大の変革と言える。新政府発足後も、藩は旧藩主が「知藩事」としてトップに立ち、独自の統治機構と軍事力を保持。政府の直轄地は旧幕府領に置いた府県に限られていた。藩を廃止して全国を政府直轄にすることは、西欧列強に対抗できる近代国家を樹立するうえで不可欠だった。
7月の時点では旧藩の領域がそのまま県になり、全国で3府302県となったが、同年11月には3府72県に再編され、藩体制は名実共に解体された。福岡県域は、古代律令制の国を基準に、福岡県(旧筑前国)、三潴県(旧筑後国)、小倉県(旧豊前国)の3県に統合された。翌72年には、隣の伊万里県が佐賀県に改称した。
三潴県の誕生と藩知事罷免
福岡、小倉両県と違い、三潴県は旧藩(久留米、柳河、三池藩)の名称を継がなかった。県庁は当初、三潴郡の榎津(現在の大川市)に置かれており、同資料館の渡部邦昭学芸員は「榎津は水運の要衝で、久留米藩と柳河藩の境界付近に位置する。双方に配慮する形で、県庁の場所や県名が決められた可能性も推測できる」と話す。
廃藩置県にあたっては、旧藩とのつながりを断つため、知藩事は職を解かれ、知事には原則として他藩出身者が任命された。ただ、福岡藩は事情が異なり、廃藩置県の直前に旧藩主の黒田長知が藩知事を罷免されている。財政難に陥った同藩が新政府の紙幣を偽造していたことが発覚したためで、1871年に出された「太政官布告等写」には黒田長知への免官と閉門処分、後任に皇族の有栖川宮熾仁親王を任命する旨が記されている。
生活への影響と県域再編
藩政時代の遺風を廃する動きは生活にも及び、国民の風俗を西洋化する国の開化政策が推し進められた。三潴県が1873年に出した告諭では、髷を切って断髪にすることを推奨し、「奮然断髪隆世開化の民と相成り候様」と呼びかけている。同年の福岡県の布告は、礼服として洋服を採用することが記された。
新政府はその後も府県の再編を続け、1876年には3府35県まで減る。小倉県は同年4月に廃され、福岡県に合併された。同月には、1874年に士族の反乱が起きた佐賀県も、三潴県に合併された。こうした動きについて、志学館大の原口泉教授(日本近世・近代史)は「合併は、中央集権の浸透を目的に、新政府が治めやすいように行われた」と指摘。「佐賀のような治めにくい県は“難治県”と呼ばれ、合併で力を抑え込んだ。譜代藩だった小倉と外様藩だった福岡のように反目し合っていた県同士を一緒にすることは、反政府に向かう力をそぐ意味合いもあったと考えられる」と説明する。
三潴県の消滅と佐賀県再設置
1876年8月には、三潴県のうち旧筑後国の区域が福岡県に、残る区域は長崎県に併合され、三潴県は5年足らずで消える。同時期に旧小倉県に属していた下毛、宇佐の2郡が大分県に組み入れられ、現在の福岡県域がほぼ確定した。
再編には反発もあり、1883年には長崎県から10の郡が分離して佐賀県が再設置され、現在の九州北部の県域が定まった。全国的には、1888年にほぼ現在の都道府県域が確定した。
さらなる合併の動きもあった。1903年、内閣は28道府県へ再編する法案を検討。福岡県が大分県全域や壱岐・対馬、下関までを管轄するなど、九州を福岡、長崎、熊本、鹿児島の4県に再編する内容だが、日露戦争などの影響で実現しなかった。
企画展では文書など37件を展示している。8月2日まで。



