NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第25回(6月28日放送)では、安土城の宴に長宗我部元親(磯部寛之)が登場し、信長(小栗旬)に四国切り取りの順調な進行を報告する場面が描かれた。しかし史実を知る者にとって、これは破局の序章にすぎなかった。
信長に従属した元親、その後に訪れた破局
『信長公記』によれば、1580年6月、元親は弟の香宗我部親泰を安土に派遣し、阿波岩倉城の三好康俊を服属させたことを信長に報告した。この時点では元親は信長への従属姿勢を示していたが、その後関係は急速に悪化する。信長の助力を受けた三好康長・十河存保が反攻を開始し、信長は阿波南半国と土佐のみを元親の領有と認める停戦令を出した。さらに天正9年11月、淡路平定を受けて信長は三好康長に阿波・讃岐の領有を認める朱印状を与えた。元親が血を流して獲得した阿波・讃岐が、三好康長のものになるという話だった。
明智光秀が調停に動いたが事態は動かず、1582年5月7日、信長は織田信孝を総大将とする四国攻撃軍を編成。その渡海予定日の前日、6月2日に本能寺の変が起きて事なきを得たが、結局秀吉による征伐を受け、元親の四国統一の夢は潰えた。
「信長の後ろ盾」で四国を切り取っていた実態
なぜこうなったのか。従来の説明は「信長が約束を破った」か「元親が欲を出した」のどちらかで片付けられてきた。だが、元親の立場から見ると、この関係はもっと奇妙な構造をしている。元親は信長に「従っていた」のか。答えはイエスでもありノーでもある。元親が阿波に攻め込んでいた相手・三好氏は、信長の敵でもあった。「共通の敵を持つ者同士」として、両者の利害は一致していた。元親は信長の傘下に入ったというより、信長という巨大な後ろ盾を利用しながら四国を切り取っていた、というのが実態に近い。
そんな元親と信長も、明確な同盟関係には至っていなかったようだ。秋澤繁「織豊期長宗我部氏の一側面 土佐一条氏との関係(御所体制)をめぐって」(『土佐史談』215号、2000年)では、信長はこの時点でも、土佐の支配者は土佐一条氏の当主である一条内政であり、元親は陪臣に過ぎないとみていたようだ。秋澤は、信長が求めたのは、傀儡とはいえ、内政を土佐の国主とする秩序に従うことだったとする。ところが、1581年2月に内政は謀反の疑いをかけられ伊予に追放。これを信長が服属拒否と見做したことで関係が悪化したのではないかと考えられている。
古文書が明かした「告げ口」の存在
さらに、信長の心変わりには讒言者の存在が指摘されている。ルポライターの昼間たかし氏は、古文書の分析から、松井友閑という人物が信長に元親の「野心」を吹き込んだ可能性を挙げる。松井友閑は信長の側近で、外交や情報収集を担っていた。彼の讒言が信長の判断に影響を与えたとすれば、元親の立場は一層厳しくなっただろう。
また、元親の軍事力の限界も指摘されている。長宗我部家の主力は「一領具足」と呼ばれる半農半兵の武士団で、常備軍ではないため、長期の遠征や広域の制圧には不向きだった。土佐の論理だけでは四国全体を掌握できず、信長の支援を失った元親は孤立していった。
「成り上がり者」に人を束ねる「格」はなかった
昼間氏は、信長が元親を「成り上がり者」と見下していた可能性も指摘する。元親は元々土佐の国人に過ぎなかったが、一条氏を追放して台頭した。信長にとって、こうした出自の低い武将が四国統一を目指すことは、自らの秩序に反するものだったのかもしれない。結果的に、光秀の顔に泥を塗る形で元親を切り捨てた信長の決断は、単なる気まぐれではなく、政治的・軍事的な計算に基づくものだったと言える。



