世羅憲司さん(80)は1945年8月17日、広島市で生まれた。原爆投下から11日後で、終戦の2日後だった。臨月だった母の静子さんは、爆心地から1.5キロで熱線や爆風を浴びながら、奇跡的に生き延びた。世羅さんは双子で6人きょうだいの末っ子だった。母は「育ちゃせんと思った」とだけ話し、当時に見たものは一切語らなかった。
胎内被爆した身の上は、隠し通すよう厳命されて育った。大学を出てスーパーマーケットの運営会社に就職し、妻にも結婚後まで被爆者であることを明かさなかった。40歳代後半から転勤で倉敷市に暮らすようになった。
転機は15年前
被爆者運動とは無縁だった世羅さんに転機が訪れたのは、約15年前。倉敷被爆者会の会員と知り合い、心を動かされて入会した。そのことを母に伝えられないまま、静子さんは2014年、101歳で亡くなった。
会員の中には、けがや病気だけでなく、差別や偏見に苦しんできた人が多い。「母の思いが身に染みた」と世羅さんは話す。その後、同会の会長に就き、コロナ禍の少し前から「被爆者の語り部講話会」を始めた。
全国でも珍しい試み
この講話会は毎月1回、会員が一般の聴衆に対して体験を語るという取り組みだ。これほど頻繁に開く被爆者組織は、全国的に珍しい。聴く人が1人だけだった回もあったが、語りの場ができたことで会員が勇気を奮い起こし、「私もやりたい」と手を挙げるようになった。100歳を目前に、長年封印してきた体験を初めて打ち明けた人もいる。
講話会では、「猛火が迫る中、崩れた建物の下敷きになって『助けて』と叫ぶ幼い子どもの声が、耳から離れない」といった切実な訴えが聞かれる。「原爆がうつる、と石を投げられたこともある」と明かす人もいた。そうした涙ながらの証言に触れるたび、世羅さんは母の声を聴く思いがして胸を突かれるという。
「被爆の実相を知ってもらうことこそ、核廃絶への道だ」。世羅さんはこう話し、被爆者が語る場を残していく責任をかみしめている。
平和祈念式と今後の取り組み
毎年6月22日の「水島空襲の日」には、倉敷市の水島緑地福田公園で開かれる平和祈念式に参加してきた。今年も黙とうをささげ、鐘を突いた。「身近に戦争があったことを、絶対に忘れてはいけない」と強く思う。
倉敷被爆者会の会員は現在65人。世羅さんが入会した頃から半数に減っており、2世の入会も認めるなど、体験の継承が急務となっている。母は本当は語りたかったのではないか。そんな思いが募る中、8月6日が今年も近づいている。
講話会と原爆展
倉敷被爆者会は次回の「語り部講話会」を25日午前10時から、倉敷市笹沖のくらしき健康福祉プラザで開く。また、12~16日には同市本町の倉敷公民館で原爆展を開き、被爆の実相を伝える写真や絵画などを展示する。いずれも無料。問い合わせは世羅さん(086-421-7855)へ。



