「盟主」から「象徴」へ、天皇像の変遷と日本の安定 皇室と日本・①
「盟主」から「象徴」へ、天皇像の変遷と日本の安定

世界で最も古い君主国は日本だ。在日デンマーク大使館のホームページには「一番古い君主国は皇室のある日本」と記されている。その原点を訪ねたのは、かすかに秋の気配を感じ始めた9月中旬だった。

神武天皇が目指した「平和な国造り」

2680余年前、初代の神武天皇が即位したとされる地に鎮座する橿原神宮(奈良県橿原市)。ホームページには「日本の歴史と文化の発祥の地でもある橿原は、日本の原点ともいえるでしょう」とある。祭神は神武天皇とその皇后だ。

小雨の平日、参拝者は多くない。「ジャリ、ジャリ」。玉砂利を踏み鳴らす音だけが静寂を破る。外拝殿前には、崩御から2600年にあたる平成28年の神武天皇二千六百年大祭にあたり、上皇さまと橿原神宮を参拝された上皇后さまの御歌(みうた)碑がある。

「遠つ世の 風ひそかにも 聴くごとく 樫の葉そよぐ 参道を行く」

「ふと遠い歴史の彼方から吹いてくるひそやかな風の音を聞くようなお気持ちで、樫の葉のそよぎを聞かれつつ参道をお進みになった情景」をお詠みになったとされる。

神武天皇の絵画が多く展示されている橿原神宮の宝物館を訪れた。理想の国造りの地を求めて九州から東へと進んだ「東征」のイメージ通り、そのほとんどが「武人」姿だった。しかし、橿原神宮の高鉾義嗣教化渉外課長の見方は少し違った。

「あたかも一軒の家の中に住むように、皆仲良く暮らそう」という神武天皇の「詔(みことのり)」に触れた上で、こう続けた。「神武天皇は平和な国造りを目指した。皇室の方々がはるばる東京からお越しになるのは、ご先祖の力をお借りし、平和を祈るためだ」

「連合体の盟主」から「立憲君主」へ

皇統は初代の神武天皇から天皇陛下に至るまで126代にわたり連綿と紡がれてきた。男系継承の根幹は堅持しつつ、それぞれの時代に適した「天皇像」を打ち出したことが永続の秘訣(ひけつ)とされる。

皇室史学者の倉山満氏は、天皇の性格の変遷について「連合体の盟主」「事実上の立憲君主」「権力のアンパイア」「近代的な国家元首」と語る。6世紀までの大和朝廷は中央集権的ではなく、蘇我氏ら畿内の有力豪族による連合政権の性格が強かった。そのトップとして君臨したのが、天皇(大王(おおきみ))だった。

「連合体の盟主」的な性格を変える契機となったのが、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(第38代天智天皇)が蘇我氏から権力を奪還した乙巳(いっし)の変(645年)だ。中大兄皇子は唐・新羅連合軍に大敗した白村江の戦い(663年)後、国防強化のために「防人(さきもり)」を九州と対馬に配備した。その多くは東国から集められており、畿内の枠を超えた強い動員力をうかがうことができる。

弟の第40代天武天皇は、天皇や皇族が国政を主導する「皇親政治」を断行。私有地や私有民を禁止する公地公民を推進し、豪族らの既得権益を剝奪した。

権力を手放した嵯峨天皇の決断

もっとも、こうした「強い天皇像」は長く続かなかった。倉山氏は「第50代桓武天皇までの天皇は『世俗的権力者』の色彩が濃かった。武力を含む大きな権力を握っていたため、争いや混乱も招いた。それを変えたのが第52代嵯峨天皇だった」と語る。

「争いや混乱」とは女性の第48代称徳天皇に重用された僧が皇位に就こうとしたとされる「道鏡事件」や、朝廷の二分を招いた薬子(くすこ)の変(810年)などを指す。「嵯峨天皇は兄の平城上皇と争った薬子の変の後、自ら権力を手放した。天皇が力を持つと、ろくなことにならないと悟ったのではないか」

実権を手放し、象徴的な存在にとどまった嵯峨天皇の姿は後の世の「立憲君主」に通じる。立憲君主制の萌芽(ほうが)となる「マグナ・カルタ」(大憲章)が1215年に西洋で誕生する約400年前のことだ。嵯峨天皇の決断は、藤原氏による「摂関政治」の扉を開く。藤原氏は「棚ぼた」的に絶大な権力を握ったがゆえに、天皇にとって代わる理由を持たなかった。倉山氏は「結果的に天皇が自ら実権を手放したことが皇室の安定につながった」と解説する。

武士の台頭と「アンパイア」としての天皇

だが、11世紀に入ると藤原氏の弱体化に伴う皇室の権力回復を図る動きが表面化する。その象徴が、皇位を退いた後の自由な立場で院政を敷いた「上皇」の活躍だ。倉山氏は「特に白河、鳥羽、後白河の3上皇は強力な実権を持った。皇室が権力を取り戻したがために、社会に再びハレーションを呼ぶことになる」と語る。

それを示すのが、「身分卑しき」存在として蔑(さげす)まれていた武士の台頭だ。上皇は保元の乱(1156年)や平治の乱(1159年)などの権力闘争で武士団を活用した。しかし、「手ごま」だったはずの武士団に実権を奪われる未来までは見通せなかった。上皇の全盛期は皮肉にも約700年続く武士の時代の幕開けを後押しする結果を招いた。

時代の担い手は平家から源氏、北条、足利、豊臣、徳川へと推移した。源平合戦や、足利政権の内紛である14世紀の「観応の擾乱(じょうらん)」など武士同士の争いが続発した中、倉山氏は天皇が「勝者を決めるアンパイア」(補任権の保持者)としての地位を確立したと解説する。

素性怪しかった豊臣秀吉は特に天皇の力添えを要したとされ、応仁の乱などを機に低迷していた朝廷の権威回復を強く推し進めた。一方、「アンパイア」としての天皇の役割を警戒したのが徳川家康だ。別の勢力が勝者だと判定された場合、労して開いた江戸幕府が瓦解(がかい)しかねないためだ。天皇に対して学問や芸能への専心を求めた禁中並公家諸法度の整備(1615年)がその表れだ。

しかし、万事は「塞翁(さいおう)が馬」だ。家康の牽制(けんせい)は朝廷の「原点回帰」を促すことになる。倉山氏は「江戸時代の天皇が『皇室とは何か』を自ら学び直した結果、廃れていた宮中祭祀(さいし)の復興などに思いが至った」と語る。家康がもたらした長期の平和は、知識層が学問に専念することを可能とし、それが朝廷の再評価につながったとの分析もある。

「山鹿素行や本居宣長らが『日本とは天皇が統(す)べてきた国だ』ということに気づいた。当時、外国の脅威に無策だった幕府に代わって朝廷を頼むような空気も醸成された」(倉山氏)

こうした変化は、天皇に頼った幕末の倒幕運動にも大きく影響する。

明治以降の天皇と象徴の現在

武士の時代が終わり、皇室典範と大日本帝国憲法を整備した明治政府が国家元首や軍の大元帥として頂(いただ)いたのが、第122代明治天皇だ。参考にしたのは英国風の立憲君主だ。19世紀の英ジャーナリスト、ウォルター・バジョットは『英国憲政論』(1867年)で、実質的統治権を持たない立憲君主であっても、内閣に対して①相談を受ける権利②奨励する権利③警告する権利-を有するとした。

倉山氏は「『政治に口を出した』として明治天皇に対して批判的な声も聞こえるが、立憲君主の枠内であり問題はない。しかも実際に政治を動かしていたのは当時の首相や大臣だ」と話す。

そして、戦後の天皇は日本国憲法で「国と国民統合の象徴」「国事行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」などと規定された。象徴を巡る解釈はさまざまだが、日本政府の公式見解は「立憲君主制と言っても差し支えない」としている。だが、憲法に「君主」「元首」といった言葉が見えない中、改憲で明文化すべきだとの声もある。

倉山氏は「天皇を『ロボット』のような無機質な存在にしたい勢力に対抗するためにも、立憲君主としての性格を打ち出す必要がある」と語る。

いくつかの「天皇像」に触れてきたが、通底して受け継がれてきた価値観もある。それは「民」を思いやる心だ。歴代天皇は民を「大御宝(おおみたから)」として慈しんだ。第16代仁徳天皇が、かまどの炊煙が立っていないことで民の貧しさを知り、税を免じたことは有名だ。

「その精神は国民との絆を重んじる上皇さまや天皇陛下も大切にされている。民を大切にしてきたからこそ、この国で革命は起こらなかった。天皇は日本の安定の根幹。まさに平和の象徴だ」倉山氏はそう語る。