「上古(いにしえ)の聖王の跡に従い天下を治めようと思う」。645年の乙巳(いっし)の変を受けて即位した孝徳天皇は、政治改革「大化改新」にあたって決意を述べた。上古の聖王こそが仁徳天皇。都も飛鳥(奈良県明日香村)から難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)(大阪市)にうつした。
中国・唐との外交をにらんだ立地
中国・唐との外交や交易のため大阪湾岸の高台を選んだが、仁徳天皇の難波高津宮があった地ともいわれる。宮殿の構造も、中国の宮都のように巨大な正殿や門、左右対称の建物配置など、のちの藤原宮や平城宮のモデルになった。
「大化改新という新しい国造りにふさわしい都を築こうとした強い思いが感じられる」。大阪歴史博物館の李陽浩(リヤンホ)・学芸課長は話す。
中大兄皇子の反旗と置き去りにされた天皇
652年に宮殿造営が完了、改革へ弾みをつけるはずだった。しかし翌年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(のちの天智天皇)が突然の反旗。「倭(やまと)(飛鳥)の京(みやこ)に遷りたいと思います」と奏上した。
拒否する孝徳天皇を無視するように、皇后の間人(はしひと)皇女や大海人皇子(おおあまのおうじ)(のちの天武天皇)らとともに飛鳥へ去り、天皇だけが置き去りにされた。そのときに詠んだのが「鉗(かなき)着け 吾が飼ふ駒は…」の一首。愛馬になぞらえつつ、妻に去られた無念さがにじむ。そして翌年、失意のうちに亡くなった。
天武天皇の「副首都構想」と後期難波宮
宮殿はその後も残った。飛鳥に都を置いた天武天皇は683年、「都城は2、3カ所造るべきだ。難波を都に」と詔(みことのり)を出した。現代でいう「副首都構想」である。令和の今、大阪に副首都が誕生する日は来るだろうか。
奈良時代、難波宮を再び都にしたのが聖武天皇だ。726年に宮殿の造営を命じた記述が続日本紀にあり、744年には恭仁(くに)宮(京都府木津川市)から宮をうつし、後期難波宮と呼ばれている。宮殿の場所や配置は、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮(前期難波宮)とほぼ重なる。
現在、大阪城の南側に復元された宮殿の基壇は、聖武天皇の後期難波宮。市民の憩いの場として親しまれる。



