スモーキングルーム第169回:千早茜が描く戦時下の緊迫した人道介入
外から突然、叫び声が響き渡った。住居用の建物から、Jと呼ばれる男女が無理やり引きずり出される光景が目に飛び込んだ。地下か物置にでも隠れていたのだろう、彼らの服はところどころ埃や剥がれた土壁で汚れている。女性は赤子をしっかりと抱きしめていたが、建物の段差で躓いてしまった。その体を支えようとした男性は、歪に傾いた十字の腕章をつけた青年兵士たちに突き飛ばされ、次々に振り下ろされる警棒の餌食となった。
女性は赤子を抱き締めたまま、必死に助けを求めて声をあげた。しかし、道行く人々は目を逸らすだけだった。それどころか、建物の窓が開き、「Jは出ていけ」と叫ぶ声が降り注いでくる。この街では、隣人同士の密告が日常茶飯事となっていた。
「俺は矜持とか主義とかはよくわからないけど、胸糞悪いよ。隣国の奴らも、同じ街に住む者を密告する奴らも」
「人道的ってのは、まあ、そういうことだ。寝覚めが悪い人生はまっぴらだな」
車は石畳の路地を抜け、街の外れの住宅街で停まった。総支配人は「さあ、いくぞ」と花束を手に取り、大きな手で金ボタンの背中を叩いた。「大事なのは勢いだ」と片目をつぶりながら、緊張をほぐすための昔語りをしてくれたことに、金ボタンは気付いた。
老夫婦の家への訪問と緊迫した対面
二人は階段を上り、鳥の巣が渡してきたメモにあった部屋のチャイムを押した。ややあって、扉が薄く開く。「こんにちは!」と総支配人が朗らかな声をあげると、老夫婦は怯えた顔で彼を見上げた。やけに恰幅が良く、奇妙なくらいにこやかな初対面の男に、明らかに戸惑っている様子だった。
「やあ、おじさん、おばさん。お久しぶりです」
総支配人は中折れ帽を片手で脱ぎ、薔薇の花束を老女に差しだした。気圧されたように受け取った老女の前で、金ボタンの肩を抱き寄せ、「息子です。わたしの子供の頃にそっくりでしょう。よく見てやってください。いやあ、何年ぶりでしょうかね」と強引に中に入ると、後ろ手で扉を閉めて声を落とした。
「お嬢さんのお迎えにあがりました」
この一言が、戦時下の混乱の中で、老夫婦の運命を変えるかもしれない緊迫した瞬間を象徴していた。千早茜は、日常が崩壊する社会において、人間性と勇気が問われる様子を繊細に描き出している。



