1991年に発生した雲仙・普賢岳の大火砕流から、3日で35年となる。当時、遺体の検視にあたった長崎県警の元警察官で、現在は壱岐市役所に勤める日高章雄さん(63)は「災害が発生しても対応できるように、日頃の備えが重要だ」と訴えている。
噴火の経緯と検視の始まり
雲仙岳の主峰・普賢岳は1990年11月に噴火。「島原大変肥後迷惑」と言われた1792年(寛政4年)以来の噴火だった。1991年6月3日に大火砕流が発生。翌4日午前5時頃、大村署刑事課の巡査だった日高さんは、当直明けだったが、先輩から被災者の遺体の検視に向かうと言われ、「大急ぎでアタッシェケースにピンセットや手袋、帽子などを詰め込んだ」。
長崎県警は、身元確認のため、周辺の大村、長崎、佐世保各署などから応援を集め、約60人の検視隊を編成した。日高さんは「198年前の噴火は遠い昔で、みんな何が起きるかを分かっていなかった」と振り返った。
過酷な検視作業
遺体は、島原市内の複数の寺などに運ばれた。日高さんらは数日間、寺で寝泊まりしながら、医師らと検視にあたった。遺体を見る先輩の補佐役を務めた。「寺に運び込まれた遺体は焼けたというより、爆発したかのような状態もあった。あんな遺体を見たのは、最初で最後だった」と語る。
遺体の身元は、歯型などの特徴から何とか特定できた。診療記録をファクスで受け取るため、島原署と寺を何度も往復した。「無我夢中で、とにかく早く遺体を遺族に戻してあげたかった」という。
今も残る心の傷
遺族への説明も寺で行われた。遺族のむせび泣く声は、今も耳に残る。検視を終え、大村署に戻った後も、思い出して眠れない日が続いた。日高さんは「災害が発生しても対応できるように、日頃の備えが重要だ」と訴え、防災意識の向上を呼びかけている。
大火砕流から35年。日高さんの体験は、自然災害の恐ろしさと、それに備えることの大切さを改めて教えてくれる。



