東京大学史料編纂所の本郷和人教授(日本中世史)が、戦国武将の人物像が後世にどのように形成されたかを解説する連載の一編。上杉謙信が「義の武将」として称賛され、武田勝頼が「無謀な愚将」と貶められた背景には、江戸時代以降の「後付けの痕跡」があると指摘する。
謙信の「義」は政治的立場の維持と結びついていた
本郷教授は、戦国の合戦が理念だけで動くものではないと強調する。謙信がどれほど「義」を掲げても、軍を動かすのは家臣団であり、命を懸けて戦えば土地や恩賞を求めるのは当然だった。越後国内でも家臣の統制は容易ではなく、財政的負担も大きかったとみられる。
戦国大名の力は当主一人の覚悟や信仰の強さだけで成り立つものではなく、家臣たちが出兵に納得し、見返りを見込めるかが常に問われる。遠くへの出兵には兵糧の準備や輸送の負担が増し、留守中の国内統治にも気を配らなければならない。謙信が掲げた大義がどれほど立派でも、それだけで何度も出兵を維持できるほど戦国の実態は単純ではなかったと本郷教授は論じる。
謙信は関東管領としての名目を掲げて出兵を重ねたが、それは純粋な道徳的行動というより、政治的立場の維持と結びついていた。関東管領という立場は単なる飾りではなく、足利体制の中で正統性を示すための重い名分であり、その名目を担う以上、関東に対して無関心ではいられなかった。つまり出兵は、義を実践する行為であると同時に、自らの地位を保つための政治的動機もあったと推測される。
また、謙信が独身であったことも、家督相続や養子縁組の現実と無縁ではない。体格の問題や女性説についても、同時代の史料に裏付けは見つかっていない。戦国の現場には、信仰と同時に利害と調整の積み重ねがあり、謙信もその構造の中にいた一人の大名だった。
米沢藩と「義」の継承
では、なぜ謙信はこれほどまでに「義」の象徴にされたのか。本郷教授は、鍵の一つは江戸時代の上杉家の立場にあると指摘する。関ヶ原の戦いの後、上杉家は大きく減封され、米沢へ移った。かつての大勢力は外様大名として幕府体制の中に位置づけられ、会津を含む広大な支配を失い、家の規模が大きく縮小したことは、単に石高の問題にとどまらず、自分たちは何者なのか、かつての名門としてどんな家柄なのかをあらためて語り直す必要が生じたことを意味する。
その中で、家の正統性や名誉をどう語るかは重要な問題となった。江戸時代、武田家では甲州流軍学が体系化され、戦術や組織が理論として整えられた。一方、上杉家の場合、軍制よりも「謙信という人物」が前面に出る。私欲なく義を重んじた祖先という像は、家の誇りを語るうえで強い意味を持った。
過去の力をいまの価値へと言い換える作業
本郷教授は、こうした人物像の再構築は上杉家に限った話ではないと述べる。武田勝頼が「無謀な愚将」と評されるのも、長篠の戦いでの敗北後、武田家が滅亡したことで、後世の軍記物や歴史観によってそのイメージが固定化された面がある。勝頼の行動は、当時の情勢や家臣団の事情を考慮すれば必ずしも無謀とは言えず、むしろ合理的选择だった可能性もある。
「過去の力をいまの価値へと言い換える作業」こそが、歴史的人物像の形成に大きな影響を与えたと本郷教授は総括する。



