東京大学に通う学生の家庭には、ある共通したルールがあった。それは、習い事を始めるときも、やめるときも、本人が「申請書」を書くというものだ。
正確に言うと、その習い事の教室に出す正式な書類のことではない。教室側の入会届や退会届は、もちろん親が代筆する。そうではなくて、家庭内で、親宛てに、本人が一枚の紙を書くのである。
「私は◯◯という理由で、この習い事を始めたいです」「私は◯◯という理由で、この習い事をやめたいです」と書いた紙を、親に提出する。
「やめたければやめていい」という家庭の方針
面白いのは、そのご家庭が別に「やめるなんて許さない」というスタンスではなかったことだ。むしろ、「やめたければやめていいよ」というテンションで、子どもの意思を尊重する家庭だった。
それでも、「これだけは書きなさい」と紙を書かせる。この話を聞いたときに、僕は「これだ!」と思った。
たった一枚の紙が生み出す「重み」
口で「やめたい」と言うだけなら、5秒で終わる。「もう行きたくない」「疲れた」「つまらない」——そんな言葉は、感情の勢いで出てくるものだ。
でも、自分で紙に書くとなると話が変わる。まず、理由を言語化しなければいけない。「なんとなくやめたい」では紙に書けない。「なぜやめたいのか」「他にやりたいことがあるのか」「本当にやめて後悔しないか」。書くという行為は、否応なく自分の頭を整理させる。
そして、自分の名前を書いて、親に提出する。たった一枚の紙だが、その紙には「これは私が決めたことです」という宣言が込められている。親が決めたからやめたのでもなく、なんとなく流されてやめたのでもない。自分で書いて、自分で出した。だから、自分の決断なのだ。
普通、こういう手続きは親がやる。「じゃあお母さんが教室に電話しておくね」で終わってしまう。でも、それだと子どもは、いつまでも「やらされている」「決めてもらっている」立場のまま。
一枚の紙を書かせるだけで、その立場が180度ひっくり返る。



