豊臣秀吉の天下統一を支えた弟・豊臣秀長。その実像は、めったに失敗しない冷静な判断力にあったとされる。特に、秀吉の大事な家臣を見殺しにしたとも取れる行動が、実はやらかしとも言えない「冷静すぎる判断」だったという。
清須会議での立場逆転
天正10(1582)年、本能寺の変で織田信長が討たれた後、秀吉は「山崎の戦い」で明智光秀を討つ。その間、柴田勝家は上杉軍の攻撃を受け、近江に到着できたのは戦いの後だった。
そのため、清須会議では、秀吉が河内・丹波・山城・播磨を獲得する一方で、勝家が得たのは秀吉の旧領・近江長浜のみ。もともとの所領である越前を合わせても、秀吉より劣ることになった。これまで信長の重臣筆頭だった勝家は、秀吉と完全に立場が逆転した。
手取川合戦での衝突
秀吉は勝家が信長の葬儀を邪魔するかもしれないと警戒し、勝家が出兵しにくい豪雪の時期に葬儀を行い、秀長に厳重な警護を命じた。
実は以前にも両者は衝突していた。天正5(1577)年の「手取川合戦」では、秀吉は七尾城落城の報に接し、戦わずして帰陣。『信長公記』には勝家との対立が伝わる。秀吉は信長から叱責を受けたが、それでも「勝家とはやっていけない」という思いがあったのだろう。
賤ヶ岳の戦いでの秀長の判断
天正11(1583)年、秀吉と勝家はついに決着をつけることになった。先に動いたのは勝家で、雪解けの3月に北ノ庄城から出陣。秀吉は織田信孝を討つため美濃の大垣城へ向かっており、秀長は援軍を要請しながら、近江と越前国境の砦で勝家軍と対峙した。
勝家方は「鬼玄蕃」の異名を持つ佐久間盛政を先鋒とし、大岩山砦の中川清秀を急襲。4月19日頃のことである。このとき秀長はほとんど動かず、秀吉軍を待った。「ここは敵を充分にひきつけておかねば……」と考えたらしい。秀長の狙い通り、秀吉が大軍を率いて押し寄せると、慌てて退却する佐久間勢を賤ヶ岳付近で撃破した。



