織田信長の重臣であった明智光秀が、なぜ主君を討つ決断を下したのか。その背景には、丹波の八上城(兵庫県丹波篠山市)にまつわる因縁が潜んでいる。古城探訪家の今泉慎一氏は、現地を訪れて光秀の味わった屈辱に思いを馳せたという。
八上城と波多野家の反乱
八上城は、丹波国内でも有数の勢力を誇った波多野家の居城である。黒井城の荻野直正(赤井直正)と呼応するように、1576(天正4)年1月に反織田の姿勢を明確にした。当時、織田家で丹波方面の攻略を担当していたのが明智光秀であり、八上城も光秀に攻められることとなった。
波多野家が反信長の態度を明らかにしてから約2年半後の1578(天正6)年9月、八上城は光秀の軍に包囲され、籠城戦が始まった。この戦いは翌年6月までの約9カ月に及んだ。光秀は10回も攻め勝ったが城を落とせず、兵糧攻めに切り替えた。城内では400~500人が餓死したという。
和議と光秀の思惑
城主の波多野秀治・秀尚・秀香三兄弟は、最終的に城兵に捕えられ、光秀の元に差し出された。もともとこの開城は、光秀からの和議の申し出がきっかけだったとも言われる。波多野家は戦前、織田方に一度は臣従していたが反旗を翻した経緯があり、三兄弟が再び臣従の意を示せば赦される可能性があるというスタンスだった。
この時点で、丹波国内のもう一つの敵の重要拠点である黒井城は未攻略だった。光秀としては、ここでいたずらに兵を減らすわけにはいかず、和議で決着をつけようとしたのである。
堅城・八上城の構造
八上城は本丸を中心に、タコ足のように各方向へ伸びる細尾根に城域が広がっている。特に北西と北東に伸びる2本の尾根が長くしっかりしており、そこに多くの防御施設が設けられている。この堅固な構造が、圧倒的に不利な情勢にもかかわらず9カ月間の籠城戦を可能にした。
光秀は力攻めを避け、和議で決着をつけようとしたが、信長の判断は異なっていた。伝承によれば、光秀の母が人質として八上城に差し出されていたが、信長が敵を処断したために母がはりつけになったという。これが光秀の信長への恨みを決定的なものにしたとされる。
本能寺の変への因縁
光秀の母が処刑された場所が八上城に残っている。この出来事は本能寺の変の3年前に起きており、光秀が信長を討つ決意を固める遠因となった可能性が指摘されている。今泉氏は「現地を訪ね、光秀の味わった屈辱に思いを馳せた」と述べている。
光秀の恨みが深かったからこそ、こうした噂が生まれたのかもしれない。八上城は、戦国史における重要な転換点を象徴する場所として、今も多くの歴史ファンを魅了している。



