トラック諸島の遺骨収集、鳥取の男性が誓う「体力続く限り」 今年は中止も
トラック諸島の遺骨収集、鳥取の男性が誓う「体力続く限り」

太平洋戦争の激戦地・トラック諸島(現ミクロネシア連邦チューク州)で、輸送船「愛国丸」に乗っていた大叔父を亡くした鳥取市用瀬町の男性が、3年前から現地での遺骨収集事業に参加している。今年も9月23日に出発する予定だったが、直前で中止に。4年連続の訪問とはならなかったが、今後も機会があれば携わりたいとの思いは揺るがない。

大叔父の最期と遺骨収集への参加

男性は岸本修さん(65)。祖父の弟にあたる岸本一正さんは、地元の中学校を卒業後、大阪の証券会社に勤めていたらしい。その後、1941年に海軍水兵として広島県の呉海兵団に入った。

愛国丸は44年2月17日、トラック諸島で米空母艦載機の攻撃を受け、沈没。荷役作業や警備の任務にあたっていた一正さんは、23歳の若さで帰らぬ人となった。

岸本さんの自宅に残るアルバムには、会社の慰安旅行で京都を訪れたり、大阪・淀川沿いの草原で横になったりする一正さんを捉えた写真がある。撮影時期から入隊前とみられ、「まだのんびりした時代で、ごく普通の生活を送っていたのだろう」と推測する。

現地で感じた「リゾートの下の凄惨な世界」

岸本さんは用瀬地区遺族会長だった父から、一正さんが愛国丸に乗っていて亡くなったと聞かされた。当初はそれほど関心が高くなかったが、自身が約7年前に会長に就いて戦没者慰霊の関連資料に目を通すうち、「どんな場所で亡くなったのか知りたい」と思うように。2023年、一般社団法人「日本戦没者遺骨収集推進協会」が主催する、トラック諸島での遺骨収集事業に初めて参加した。

準備の一環で、出発前に図書館で借りた関連書籍を読むうちに「死ななくてもいい人が死んでいき、無駄な戦争だった」と気づかされた。現地に着くと、澄み渡る青い海が目の前に広がった。「海面だけを見れば、観光パンフレットに載っているようなリゾート。その下に、80年前の凄惨で阿鼻叫喚の世界が残っているのか」と感じた。

この時は愛国丸とは別の船が対象で、潜水士が船内から収集した骨の汚れをブラシで落とす作業を担当した。「海中にあったので湿ってずっしりと重く、魂が宿っているようだった。とても粗末に扱うわけにはいかない」。心に抱いた畏敬の念は今も変わらない。

今年は中止も「非難すべきことではない」

翌24年には、愛国丸などを対象にした遺骨収集に参加した。洋上から愛国丸の船体は見えなかったが、潜水士が引き揚げた遺骨を目に「80年間、日の当たらない海中に沈んでいた。ようやくお迎えできた」と感慨深い気持ちになった。

今年の遺骨収集の対象は主に別の船で、愛国丸が含まれるかは、時間や現地の条件次第だった。スーツケースに荷物を詰め込むなど準備を進め、同居する90歳の母に「来週行く」と伝えていたところ、推進協会から9月18日に電話で中止を告げられた。協会などがチューク州政府に以前から打診していたが、回答がない状況が続き、実施は困難との判断に至ったためだ。

出発まで1週間を切ったタイミングでのまさかの展開に拍子抜けした。それでも「関係する方々はぎりぎりまで交渉し、尽力してくれた。非難すべきことではない」と受け止める。

「調査対象が愛国丸であるか、引き揚げられた骨が大叔父のものかは関係なく、一人でも多く見つかり、遺族の元に戻ってほしいと願うのは当然。年齢や体調の関係で現地訪問が難しい人に代わり、体力が続く限り参加したい」。その思いを一層強くする。

愛国丸の遺骨、身元判明は進まず

身元特定のための遺骨のDNA鑑定は、厚生労働省が実施する。厚労省によると、愛国丸からはこれまでに393柱の遺骨が引き揚げられた。ただ、DNA鑑定を取り入れたのが2003年度からのため、それまでに収集された355柱は鑑定にかけられず、東京・千鳥ヶ淵戦没者墓苑に納まる。残る38柱は鑑定が進んでいるが、身元はまだ判明していない。

トラック諸島の遺骨収集では、別の2隻から引き揚げられた遺骨のうち6柱の身元が特定されている。

トラック諸島は日本から南に約3000キロ離れている。第1次世界大戦後に日本の委任統治領となり、戦艦「大和」などが寄港する海軍の重要拠点になった。1944年2月の米軍攻撃では約40隻の艦船が撃沈された。遺骨収集の対象となったのは愛国丸を含めてこれまで12隻。