織田信長にとって、荒木村重は窮地を脱する大きな一手だった。しかし、その村重も後に信長を裏切ることになる。村重と明智光秀には、ある共通点があった。それは、どちらも織田家に中途入社した家臣であることだ。生え抜きの家臣に比べて、どこかすっきりしない気持ちを抱えていたのかもしれない。
荒木村重の反逆と信長の苦境
天正5年(1577年)、信長の命令で羽柴秀吉が毛利攻めを任され、播磨に出陣すると、それまで播磨を勢力下に置いていた村重は面白くなかっただろう。やがて村重は信長を裏切り、有岡城に籠城した。織田軍は総攻撃をかけたが、有岡城の堅固さに阻まれ、万見重元ら2000の兵を失う。やむなく兵糧攻めに切り替えた信長だったが、村重は10カ月の籠城の後、有岡城を脱出。その後も尼崎城・花隈城で抵抗を続け、完全に逃れたのは天正8年(1580年)7月のことだ。
村重は有岡城から逃げる際に妻子を置いていったため、「妻子を捨てて逃げた卑怯者」というイメージが強いが、毛利の援軍を得るためにやむを得なかったという見方もある。1年9カ月もの間、信長を相手に粘り続けた村重の豪胆さは、謀反を鎮圧した信長にとっても大きな損失だった。織田政権内で秀吉の存在感が増し、それに伴って秀吉を支える弟・秀長の重要性も高まっていった。
豊臣秀長の役割と評価
秀長は秀吉の天下統一を支えたNo.2として知られる。その人生と絆を描いた『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(日本能率協会マネジメントセンター)では、秀長の実像に迫っている。秀長は政治、軍事、外交の各方面で秀吉を支え、その能力は高く評価された。
参考文献として、太田牛一著『現代語訳 信長公記』、天野忠幸著『シリーズ・実像に迫る 荒木村重』、河内将芳著『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』、谷口克広著『信長と消えた家臣たち 失脚・粛清・謀反』、杉山博編『多聞院日記索引』、河合敦著『豊臣一族 秀吉・秀長の天下統一を支えた人々』、竹内理三編『史料大成多聞院日記』、真山知幸著『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』などがある。



