太平洋戦争末期の1945年6月29日、岡山市で空襲があり、当時8歳だった澤田(旧姓・樫野)睦美さん(89)は、母と幼い妹たちとともに逃げ惑い、死を覚悟しながらも「もう1回だけ逃げよう」という叫びで家族を救った。この空襲で市街地の6割が焼失し、1700人以上が犠牲になった。
焼夷弾が降り注ぐ中、一家は右往左往
午前2時43分、米軍のB29爆撃機138機が岡山の空を覆い、空襲警報が鳴らないまま大量の焼夷弾が投下された。睦美さんの木造平屋の家にも焼夷弾が落ち、障子が燃え上がった。一家は毎晩、逃げる準備をしていたが、いざ火が迫るとうろたえ、泣きながら着替えた。
持ち出す物は分担が決まっており、睦美さんは3升のコメ入りの袋、6歳の満さんは風呂敷、母の佐倭さんは1歳4か月と生後2か月の妹を抱え、両脇に睦美さんと満さんを従えて外へ飛び出した。
防空壕の直撃と、はぐれた妹
逃げる途中、警防団員に防空壕へ入るよう命じられたが、佐倭さんが「入ってはだめっ」と制止。直後にその壕へ焼夷弾が直撃し、隣の中学生が炎を背負って飛び出してきた。
ふと気づくと満さんがいなくなり、引き返すと「樫野の母ちゃーん」と泣き叫ぶ声が聞こえた。佐倭さんは普段から「避難時は必ず『樫野』と名字を呼ぶように」と言い聞かせていた。
末妹が見つかり、母は疲れ果てる
さらに末妹がいなくなり、捜し回ると道端の溝で見つかった。誰かが踏まれないようにと寝かせたのだろう。ほほにやけどを負っていた。
5人そろったが、佐倭さんは疲れ果て、まだ焼けていない民家で「焼け死ぬなら5人一緒に」とつぶやいた。その時、家にも火が回り、睦美さんは「お母ちゃん。もう1回だけ逃げよう」と叫んだ。
用水路で夜明けを迎え、泣きながら笑う
5人は用水路に飛び込み、石橋の下の水道管につかまって火の熱をしのいだ。空襲は1時間24分続き、夜明けとともに岸に上がった。睦美さんは、母の顔を見上げて満さんと泣きながら笑ったことを覚えている。
持ち出したコメは煎り米になっており、佐倭さんは周囲の人にも分け合って食べるよう呼びかけた。
広島への原爆投下の知らせ
焼け出された一家は、岡山市から約30キロ離れた落合村(現・高梁市)に移り住んだ。佐倭さんは夫の帰りを待ち望んでいたが、村で「広島もやられたらしい。『ピカドン』という違う爆弾で」という話を聞き、衝撃を受けた。夫の赴任先は広島市だった。
後編では、睦美さんの父・三郎さんの手記をもとに、原爆投下直後の広島の様子をたどる。



