第2次世界大戦後のモンゴル抑留で亡くなった日本人抑留者の遺骨が今年、遺族に引き渡された。身元特定のきっかけは抑留問題を取材するジャーナリストが見つけた死亡記録。厚生労働省によると、民間の活動で遺骨返還につながったのは初めてで、遺族は「ようやく最期を知ることができた。感謝しかない」と話す。
「やっと両親が同じ墓に入れた」
岡山県総社市の高台にある市営墓地。門田清一さん(1946年死去)の遺骨が5月、門田家の墓に納められた。2002年に90歳で亡くなった妻・正子さんも眠る。「やっと両親が同じ墓に入れた。天国でどんな会話をしているのだろう」。長男・光正さん(87)は思いをはせる。
モンゴルでの取材で、清一さんの死亡記録を入手した元読売新聞記者のジャーナリスト井手裕彦さん(71)は7月31日、堺市堺区の光正さん宅を訪れ、死亡診断書の写しなどを手渡した。
死亡記録が明らかにした詳細
井手さんが見つけた記録などによると、東京で衣料品店を経営していた清一さんは1944年5月、陸軍に召集され、中国戦線に送られた。警備のため転戦した満州(現中国東北部)で45年8月、ソ連軍の捕虜となり、モンゴルの収容所に移送され、46年12月に肺炎のため39歳で亡くなった。
家族の元には、「外蒙古の収容所で死亡」と48年5月頃に通知が届いただけだった。死亡記録によって死因や死亡日時、埋葬場所などの詳細がわかり、光正さんは「気持ちに区切りがついた」と話した。
誤った氏名記載で特定に至らず
モンゴルで死亡した日本人抑留者は約1700人に上るとされる。日本政府は91年3月、モンゴル政府から死亡者名簿の提出を受け、94~99年度にモンゴル国内12か所の墓地で遺骨1501柱を収集した。だが、名簿には清一さんの氏名が誤って記載されており、身元特定に至らなかった。
事態が進展したのは2020年1月。井手さんがモンゴルの国立中央公文書館で日本人抑留者379人分の死亡記録を含む約1100ページの資料を手に入れた。情報提供を受けた厚生労働省も22年7月、職員を派遣し、同じ資料を入手した。
それにより、清一さんがモンゴルの収容所で死亡した後、ダンバダルジャ墓地に埋葬されたことが判明した。25年7月、この墓地で収集されていた遺骨のうち1柱がDNA鑑定の結果、清一さんと確認され、26年4月に返還された。
今後の調査と情報公開
厚労省はモンゴル側と日本側の資料を照合し、死亡した抑留者1546人の身元を特定したが、約160人の身元は不明だ。収集された遺骨のうち遺族に返還されたのも3割弱にとどまる。モンゴルには未発掘墓地などに、多数の遺骨が埋まっているとみられる。
厚労省は1月、モンゴル政府に追加調査や資料提供を依頼した。事業課の担当者は「新たな情報があれば調査する」としており、8月31日~9月8日に現地へ職員を派遣する予定だ。
井手さんは、「モンゴル抑留死亡者名簿」のホームページを25年3月に開設し、取材で入手した情報を公開、遺族から連絡を募っている。取材を契機に47人の身元が特定され、これまでに23人の遺族に死亡記録を届けた。
今年6月には、過酷な抑留実態をまとめた「モンゴル抑留 見捨てられた死者たち」(角川新書)を出版した。井手さんは「身元の特定に必要なすべての記録提供を日本政府はモンゴル側に求めるべきだ。特定されなければ、遺族の『戦後』は終わらない。残された時間は少ない」と訴える。
追悼集会に約200人が参列
第2次世界大戦後に旧ソ連のシベリアなどに抑留され、亡くなった人たちを追悼する集会が23日、東京都千代田区の千鳥ヶ淵戦没者墓苑で開かれた。参列した約200人の元抑留者や遺族らが、犠牲者の冥福を祈った。
集会は、元抑留者や遺族らで作る「シベリア抑留者支援センター」(東京)の主催で、今年で24回目。8月23日は旧ソ連の最高指導者スターリンが日本兵らをシベリアなどに移送するよう命じた日で、同センターが毎年この日に開催している。
モンゴル抑留とは、第2次大戦でソ連の捕虜となった日本兵ら約57万5000人のうち、大部分がシベリアに連行された一方、約1万4000人はソ連の影響下にあったモンゴルに送られた。首都ウランバートルのインフラ整備などに従事させられ、飢えや寒さ、重労働などで約1700人が死亡したとされる。



