大分県の旧宇佐郡で初めての海軍飛行予科練習生(予科練)だった相良六男(むつお)さん(1997年に80歳で死去)の写真や遺品が、宇佐市上田の市民図書館で開催中の企画展で初公開されている。孫で同市教育委員会職員の順一さん(56)は「戦争が身近にあったことを感じ、考えてもらえれば」と語る。
祖父の姿に「今と同じ、普通の少年」
祖父・六男さんの写真を手にする順一さん。下は受け継いだ懐中時計。「今と同じ、普通の少年ですね」。セーラー服に飛行帽をかぶった、あどけなさが残る17歳の祖父の写真を見て、順一さんがほほ笑んだ。
六男さんが予科練を修了し、4等航空兵になった時の姿だ。企画展に合わせて市教委から何かゆかりの品がないかと相談され、順一さんの家族が探し当てた。
難関を突破、教官として多くの教え子を特攻に
六男さんは、現在の同市川部の農家に六男として生まれた。小学校を卒業後、「飛行機に乗りたい」と予科練を志願し、合格した。戦時中は全国で大量に採用された予科練だが、戦前は難関として知られ、市教委によると、当時の宇佐郡内に合格者はいなかったという。
家族が六男さんから聞いた話や本人が残した手記などによると、受験書類を取りに行った役場では「どうせ受からんから、やめておけ」と言われ、両親からも「人には言わず、黙って受けてこい」と告げられた。しかし「堂々と行く」と、神奈川県の横須賀へ受けに行き、見事、4期生に合格した。
戦闘機乗りを望み、佐伯市の基地で厳しい訓練を積んだ。最後の九州一周飛行で宇佐上空を「訪問飛行」すると、母校の駅館(やっかん)小の児童たちが、校庭で「六男」と大きな人文字をつくってくれていた。「目頭が熱くなり、大粒の涙がこぼれた」と手記に書いている。
その後、台湾や中国など国内外で勤務し、空母「赤城」にも乗艦。42年4月の米軍による日本初空襲の日には、首都上空を防衛した。その後は、教官として朝鮮半島の元山に勤務し、多くの教え子を特攻に送り出すことになる。45年の沖縄戦後には、自らも特攻要員に選ばれたが、出撃前に終戦を迎えた。
「忘れたら申し訳ないこともある」、孫が伝える思い
戦後は、軍艦島と呼ばれる長崎市の端島炭坑で働くなど苦労を重ね、故郷でスイカや米を育てたり、建材店で働いたりして家族を養ったという。
同居していた順一さんにとっては「優しいじいさん」で、戦時中の生々しい体験談をすることはなかった。しかし、中国を空襲した時の記憶として、「母親と子どもが花を摘んでいたのが見えて、撃たなかった」と語ったことがあった。
「戦争はしたらいけん。忘れたらいけんこと、忘れたら申し訳ないこともある」とも話していたという。順一さんは「きっと教え子たちを特攻などで死なせたことを忘れられなかったのだと思う」と祖父の心境を思いやった。
順一さんは、市民図書館で開催中の企画展「知ってるつもり!?宇佐海軍航空隊」で、六男さんの懐中時計も展示した。戦闘機乗りだった時に使っていた物で、亡くなる数年前に渡されたという。
終戦から81年がたち、当時を知る人も少なくなる中、「(展示によって)戦争が身近にあったことだと感じてくれるかもしれない。いろいろな人に見てもらって、考えるきっかけにしてもらえれば。そうすることで、じいさんも喜んでくれたらいいな」と願っている。



