戦後80年を超え、自らの戦争体験を次世代に遺そうと決意する新たな「証言者」が相次ぎ登場している。当時を知る人々が少なくなり、記憶の継承が危ぶまれていることに加え、世界各地で戦火が絶えない状況が契機となっているようだ。
14歳の時、医師の父に同行していた朝鮮(現在の北朝鮮)・平壌で終戦を迎えた浜川量子(かずこ)さん(95)=東京都練馬区在住=もその一人。内地とは異なり穏やかだった暮らしは敗戦とともに一変し、食料の確保にも苦労する生活を経て、家族とともに日本への引き揚げを体験した。今夏に出版した著書「北緯三十八度線を越えて」には、必死の思いで国境を駆け抜けた少女の記憶と、「平和の大切さを自分の体験を通して伝えたい」という強い思いが込められている。
平穏な日々が一変…「民間人は見捨てられた」
「終戦までは、戦争に置き忘れられたような平穏な日々でした」。そう振り返る浜川さんが生まれ育った福岡から平壌に移り住んだのは1942年5月。九州大医学部に籍を置く内科医の父が、日本の統治下にあった朝鮮の平壌医学専門学校に教授として赴任することになったためだ。父には「近々空襲にさらされるであろう本土に比べ、朝鮮の方が安全だ」という認識があったという。
実際、平壌では煉瓦(れんが)造りの官舎に住み、内地のように食料に不自由することもなかった。それでも、戦争末期には浜川さんが通う女学校でも軍事教練が行われるようになり、父は終戦間近の45年5月、軍医として召集された。
8月の敗戦後、現地の日本軍は武装解除となり、状況は一変した。「民間人は何も知らされないまま、国に見捨てられたも同然だった」と浜川さんは語る。住まいは侵攻してきたソ連軍(当時)に接収され、マラリアを患って帰還した父とともに、鉄道病院に勤めていた叔父一家の元に身を寄せた。植民地支配から解放された朝鮮の群衆は街を行進し、家の窓ガラスに石を投げつけられることもあった。ある日、突然台所に入ってきたソ連兵から銃を突きつけられた浜川さんは、とっさに身をかわして裏庭に飛び出し、トウモロコシ畑に隠れて何とかやり過ごしたという。
鉄道関係者らが収容された施設に移ってからも、ソ連兵が部屋に入ってきて「女を出せ」と要求することもあった。そのたびに長兄が叫んだ「ここには既婚者しかいません!」というロシア語を今も浜川さんは鮮明に記憶している。
シベリア抑留免れた父…ようやく帰国へ
食料も乏しい困窮生活の中、浜川さんは手元に残っていた和服の晴れ着や帯をテーブルクロスやクッションに作り直し、売り歩くことを思いつく。ソ連の将校の家を回ると、快く品物を買い上げ、昼食まで振る舞ってくれるマダムがいた。裁縫の腕を見込まれ、叔母とともに洋服の仕立てまで引き受けるようになり、浜川さんの機転が家族を支えた。
その頃、日本人男性が厳寒の地での山林伐採や鉄道工事などの要員として、次々に連行されていた。戦時中から朝鮮の人々も分け隔てなく診察していた父は、平壌に残って医療に携わることを命じられ、シベリア行きは直前で中止されたという。
ようやく帰国の計画が持ち上がったのは、終戦から約8か月後の46年春のこと。日本人の鉄道関係者と家族ら数百人が列車で南下し、鉄道が途切れた地点から、徒歩で米ソが分割統治する38度線を越えるという話だった。現地の鉄道当局のはからいで、ソ連軍には内密だったとみられ、叔父一家とともに、浜川さんの家族も引き揚げ団に加わることができたという。
「女を出せ」ソ連兵の要求 はねつけた父
夜半に貨車の中で待機し、ようやく南に向けて車両が動き出した瞬間は「日本にようやく帰れるという喜びで、爆発しそうだった」と浜川さんは振り返る。しかし、その行程は過酷きわまるものだった。翌朝、線路が分断された地点に貨車が止まり、引き揚げ者らは重い荷物を抱え、列を作って平原を歩いた。休憩地点では木の枝を荷物や帽子に押し込んで偽装し、38度線の手前の「最後の難関」に備えた。
日没後、500人近くの集団はうっそうとした森の中の道を押し黙って前に進む。泣き出す子がいると「殺すぞ」と叱責(しっせき)されるほどの緊迫感だったという。平地に出ると、現地の村人が勝手につくった「関門」の小屋があり、父が持っていた薬などの物品と引き替えに通過することで交渉が成立した。数人のソ連兵が銃を構えて近づき、「女を出せば見逃してやる」と要求してきたのはその直後だった。
「女性を差し出して一刻も早く突破しよう」という声も出る中、父は「あくまで金で解決しよう」と提案。皆から募った紙幣や小銭をソ連兵に渡し、何とか説得することができた。こうした事態に備えて若い女性は皆丸刈りにして男装しており、短髪にしていた浜川さんも年齢を聞かれたが、両親から言われた通り「12歳」と答えたという。
そこから38度線の突破を目指し、林の中の道をどのくらいの時間走ったのか、記憶は定かでない。幼い弟、妹を連れた両親は後から行くことになり、兄と浜川さんは先行するよう言われたのだ。「後ろを振り向くな、突っ走れ!」「無事命あって日本に着いたら、どんなに苦しくても2人で力を合わせて生き抜くように!」。今生の別離も想定したのだろう。父の指示に背中を押され、兄と妹は無我夢中で丘を登り切り、長く続く下り坂を走りに走ると、平地が開けた。いつ背後からソ連兵の弾が飛んでくるか分からないという恐怖に駆られながら、最後の力を振り絞ったという。
集合場所とみられる大きな一本松が見えると、先に到着していた人たちから「ここはアメリカ側だ」「もう大丈夫」と声が掛けられた。最後に父と母、幼い妹や弟たちが無事到着すると、浜川さんは心から安堵(あんど)したという。一団は当時米国の軍政下にあった開城まで移動して貨車に乗り、京城(現在のソウル)を経て釜山からの引き揚げ船で帰国の途に就くことになる。
「普通の市民が犠牲になる」 手記に込めた思い
約150ページの本を読んで圧倒されるのは、その鮮明な記憶力と、当時の情景が目の前に浮かんでくるような迫真の描写だ。実は、浜川さんが手記を書き始めたのは約30年前にさかのぼる。幼い頃から、引き揚げの苦労話を断片的に聞いていた長女の香雅里(かがり)さん(67)、次女の縁(ゆかり)さん(65)から、戦後50年を機に「貴重な体験を記録しておいたら」と勧められたのだ。父の故郷・鹿児島県で女学校に通い、東京の大学に進学して薬剤師となった浜川さんは、一念発起してカルチャーセンターの文章講座に通い、推敲(すいこう)を重ねて平壌で迎えた終戦の日の様子を短い文章にまとめた。これが今回出版した書籍の序章になるが、83歳まで現役の薬剤師として仕事を続けながらの執筆は順調ではなかった。
当時の国際情勢に絡む記述も必要なため、「安易に表に出すことはできない」という思いもあった。図書館などで資料や朝鮮半島の地図を確認し、記憶を裏付ける事実関係の調査を進めた。鹿児島の親戚を回って聞き取りもしたが、現地で息子が病死するなど過酷な体験を経たためか、前後の記憶が丸ごと消えていると話す親族もいて、改めて戦争の残酷さを実感したという。
浜川さんは、出版社で宣伝・広報を担当していた香雅里さんらの助言も受けながら、少しずつ文章を書きためていった。今回、出版に踏み切ったのは、ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルと米国によるガザ攻撃など紛争が相次ぐ情勢を受け、「戦争の悲惨さを伝えなければ」という使命感を改めて強くしたためだ。2023年には読売新聞の取材を受け、くらし面の連載「引き揚げを語る」の初回で浜川さんの体験が紹介された。
満州(現在の中国東北部)、朝鮮半島、台湾などの外地で終戦を迎えた日本人は約660万人に上る。一夜にして「敗戦国」の国民となって略奪や暴行の恐怖にさらされた。民間の引き揚げ者は約319万人。終戦の翌年、各地からの引き揚げが本格化したが、過酷な行程で命を落とした人も数多い。



