戦後81年、南の楽園パラオで戦火の記憶を辿る ペリリュー島の惨禍と今
戦後81年、パラオ・ペリリュー島で戦火の記憶を辿る

戦後81年を迎えた今年7月、東京から約3200キロ南に位置するパラオ共和国を訪れた。ミクロネシア地域に数百の島々を持つこの国で、戦火の記憶を辿る旅に出た。

今も残る日本語の足跡

パラオは1994年に独立するまで、スペイン、ドイツ、日本、アメリカによる統治を経験した。日本の統治が始まったのは、第一次世界大戦後の1920年。国際連盟の委任によるもので、コロール島には日本の南洋庁が置かれ、道路や港湾、病院の整備、現地の子供への「公学校」設置、農業指導などが行われた。

約2万人の日本人が移住し、パラオ人と共生する時代が続いた。その影響は今も色濃く残り、パラオ語には日本語由来の語彙が使われている。訪問中には、「デンワ」「スコージョー(飛行場)」といった言葉を耳にし、「桃太郎」の童謡を歌ってもらう場面もあった。童謡は、日本統治時代を生きた世代が子や孫へ伝えてきたものだという。

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激戦地ペリリュー島の惨禍

日本による統治は、先の大戦で終わりを迎えた。その記憶を辿ろうと、コロール島から船でミルキーブルーの海を南へ約1時間。緑豊かな木々が茂るペリリュー島に上陸した。この島は、1944年9月から日米が凄惨な死闘を繰り広げた激戦地だ。

ペリリュー島の戦いを指揮した中川州男陸軍大佐(死後に中将)は、本土への攻撃を一日でも遅らせるため、地下壕を張り巡らせて持久戦を展開した。約2カ月半の死闘の末、日本軍約1万人、米軍約1700人が戦死した。一方で、米軍上陸前に日本軍が避難を促したことで、現地のパラオ人にはこの戦闘による死者は出なかった。

島に刻まれた記憶と遺骨収容

島内には、惨禍の記憶が刻まれていた。ジャングルに横たわるゼロ戦や九五式軽戦車、米軍の水陸両用装甲車などが、80年余を経て草木を育む土台となっている。日本海軍航空隊司令部跡では、空爆と艦砲射撃に打ちのめされたコンクリートの骨組みの隙間から青空が見えた。

島の南端にある西太平洋戦没者の碑では献花し、黙禱を捧げた。碑の真下には、雲と日本の方角を示す矢印があしらわれており、英霊が雲に乗り祖国へ帰れますようにとの願いが込められている。この碑は、戦後70年の2015年、在位中の上皇さまと上皇后さまが碑の前で深い追悼のお心を示された場所でもある。

旅の終わりに、集団埋葬地を見学した。米軍の記録を分析し、2024年9月に場所が確認され、同年末から本格的な遺骨収容作業が始まった。同島で未収容となっている約2400柱のうち、およそ半数の収容が見込まれている。

在パラオ日本国大使館の小野俊輔参事官は、「日米の戦争であったが、パラオを戦禍に巻き込み、美しい自然を破壊してしまった。それでもパラオは一切の補償を日本に求めません。私たちはその事実をどう受け止めていくべきか」と語る。

シラオネッタイチョウが滑空する、サンゴ礁の広がる美しい楽園で、戦争の記憶を未来へつなぐ責任を胸に刻んだ。

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