南極越冬隊員・石沢孝浩さん、雪山ガイドの経験を安全確保に生かす
南極越冬隊員・石沢孝浩さん、雪山ガイドの経験を安全確保に生かす

山形市の石沢孝浩さん(59)は11月に日本を出発する第68次南極越冬隊で、観測隊員が野外で活動する際の安全を管理する野外観測支援を担当する。普段は山形県の月山などで山岳ガイドを務める石沢さんは現在、出国準備に追われている。

今秋、日本の南極観測は昭和31年の第1次隊出発から70年を迎える。極地の厳しい自然の中で隊員の命を守る重要な任務を担う石沢さんに、これまでの経験をどのように生かすのかなど、節目の観測隊に参加する意気込みを聞いた。

危険回避の訓練を担当

野外観測支援担当の隊員は「FA」(フィールド・アシスタント)と呼ばれる。観測隊員が雪上車やスノーモービルで昭和基地の外に出るのは危険を伴い、南極大陸では氷の割れ目のクレバスに注意が必要で、海氷上の移動も油断大敵。危険を避ける知識や訓練、装備が必要だ。

自分の強みは雪山などで積み重ねた経験。主に活動してきた真冬の月山は南極と同じようにブリザードが吹き荒れ、ホワイトアウトすることも珍しくないという。「そのような状況は得意な部分で、怖さも分かっていると思います」と語る。

南極観測隊を知ったのは、地元出身で越冬隊長を務めるなどした石沢賢二さんが小学校で話をしてくれたとき。「当時、南極は宇宙みたいな所でした。内容は覚えていませんが、同じ名字だったのが印象的でした」と振り返る。

毎日の下校が登山

小さい頃から山が大好きだった石沢さんは、山形市の西蔵王地区で生まれ、「完全に山の中。〝ポツンと一軒家〟みたいな感じです」と話す。雪も多く、保育園の頃にはスキーを履いて歩いており、当時は積雪が2メートル弱あった記憶があるという。

小学校低学年からは道路の坂でそりをしたり、家の裏にあるブドウ畑の斜面をスキーで踏み固めて滑ったりしていた。「バックカントリースキーのツアーなどをやっていると『あれ? 子供のときと同じだ』と思うことがあります。規模は違いますが、作業は完全に一緒ですね」と笑う。

小学校まで4キロほどありバス通学だったが、停留所までも2キロほどあり、冬場は雪が降るとプラスチック製のミニスキーで停留所まで滑って行ったという。「内緒で…。帰りは毎日1時間弱の登山です。それが普通で何とも思わなかったです」と話す。

スキーを本格的に教わったことはなく、「遊びのスキーを通じて慣れた感じです。レースには出てないし基礎スキーも習っていません。ただ、好きで滑っていた。それが良かったと思います」と語る。

故郷で山岳ガイドに

高校卒業後は上京して会社員として働きながら、アウトドアイベントを手伝うようになり、登山やカヌーなど多くのアクティビティーを手掛ける会社で経験を積んだ。28歳の時、母が体調を崩したため山形にUターンし、アウトドアのイベント会社を立ち上げた。

月山にある山形県立自然博物園に出入りするようになってさまざまな人と関係ができ、ゴムボートで激流を下るラフティングや古道を巡るツアーなど、イベントの企画や運営に乗り出した。同時進行的に山岳ガイドの資格を取得し、30代前半で日本山岳協会のガイドになった。

かかとが自由に動かせて斜面も登れるテレマークスキーの指導員資格を取るなど、少しずつ活動の幅を広げた。「当時は『自分がやりたいことは何?』と問い続けていましたが、地元に帰って4~5年で進む方向が見えてきました」と振り返る。

その後、さまざまな活動を通し南極観測隊に参加した経験がある方に何人か出会い、「活動内容を聞くうちに『自分も行けるのでは?』と考えるようになりました」。FA隊員の公募に申し込んだが最初は落ち、昨年、2回目の挑戦で合格し南極に行けることになった。

石沢さんは昭和42年6月生まれ。現在は月山、湯殿山を主な活動エリアに山岳ガイドや山岳スキーツアーガイド、アウトドアイベントなどを手掛け、ドローンによる山岳遭難者の捜索にも尽力する。再来年の帰国まで活動は休止している。