女性はルッキズムから逃れられない?容姿への言及をやめるべき理由
女性はルッキズムから逃れられない?容姿への言及をやめるべき理由

先日ドイツを訪れた際、久しぶりに会ったドイツ人の女友達Aさんとカフェでおしゃべりをしていたときのこと。互いの近況報告をするなかで、共通の女友達Bさんの話になりました。Bさんはヨガとダンスが得意で、体を動かすのが好きな活動的な女性です。筆者が「Bさんにこの間会ったけど、ヨガ中心の生活をしているせいか、体形がスレンダーで服も似合っていて素敵」と言ったところ、「ルッキズムに毒されている」「人を見た目で褒めるのはやめたほうがいい」とたしなめられました。

その言葉に、はっとさせられました。日本では「ポジティブな内容、つまり褒めているのであれば、他人の容姿に言及してよい」という暗黙の了解があるように感じます。例えば、久しぶりに会った人に対して「痩せたね」と言うのは問題ないと考える人が多いでしょう。しかしドイツは違います。昔は容姿について気軽に口にする雰囲気がありましたが、近年、ルッキズム、特に女性に対するルッキズムが問題視されるなかで、状況は確実に変わってきています。たとえ同性同士であっても、「痩せたね」などと容姿について言及するのは望ましくない、と考える人が増えました。

男性社会で「選ばれる女性」とは

そうはいっても、ドイツにこの手の問題が全く存在しないわけではありません。ドイツで人気のポッドキャスターで作家のSophie Passmann氏は、フェミニストとして女性の生き方について発信しており、自らの気持ちを本音でさらけ出すことで、多くの人の共感を得ています。著書「PICK ME GIRLS」で彼女はこう書いています。

「(若かった頃)私はセクハラされませんでした。そして、セクハラされないという事実が私を不安にさせました。なぜなら、『男性がセクハラをしない』ことがイコール『女性をリスペクトしている』という意味ではないからです。大概の場合、男性が女性に魅力を感じないからセクハラという手間暇をかけない、というだけのことです。自分があまりセクハラをされないと気付いた私は、痩せるためにジムに通うようになりました。(中略)30歳近くになった今の私のほうが、20代前半だった頃よりも、容姿が魅力的です。なぜそれが分かるのかというと、今は頻繁にセクハラに遭うからです」

これは決して「セクハラされたい」ということではありません。男性社会で生きていくなかで、女性が必然的に身に付けてしまう「容姿によって選ばれる女でありたい」という願望を、彼女は書いているのです。

これを「バカバカしい」と一蹴するのは尚早かもしれません。というのも、女性が日常生活を送る中で、「自分の容姿を世間の期待に合わせていかないと生きづらい」という現実があるからです。たとえば就職活動では「女性は化粧をしているのが基本」というのが暗黙の了解になっています。社会人になってから、仮に女性が「自分は化粧をしない」と決めたところで、上司などの仕事関係者が良い顔をしなければ、人間関係に影響が出そうです。結果的に仕事がやりにくくなってしまうこともあるでしょう。企業の上役の多くが男性であり、仕事という場が男性社会である以上、女性は「能力を認めてもらうために、まず容姿を認めてもらわなければいけない」という現実に直面するのです。

「美的感覚」は慣れの産物

化粧をしていないスッピンの女性の顔を見た人が、「身だしなみがなっていない」「きれいではない」と感じることがあります。化粧をしていない男性の顔を見ても何とも思わないのに、です。考えてみれば不思議な現象ですが、これは、化粧をしていない女性の顔が化粧をしていない男性の顔よりも醜いということではありません。単に我々が、化粧した女性の顔に見慣れてきたから、そうでない顔を見ると、きれいでないと感じ、違和感を持つということにすぎません。つまり、化粧する女性が多いことで、女性の美について世間の期待を上げてしまっているのです。化粧していない男性の顔を特に醜いと感じないのは、化粧をしていない男性の顔を常に見続けてきたから、という「慣れ」も大きいのです。我々の「美的感覚」と思われるものは、実際には長年の慣れの産物です。近年ドイツのSNS界隈では、そのような指摘がされるようになり、多くの賛同を得ています。

たかが体毛、されど体毛

先日、男性のすね毛について書きました。脚に毛が生えていることについて、男性は特にとがめられないのに、女性の脚の毛は「みっともない」とする社会の共通認識があります。でも程度の差はあるものの、女性にだって毛は生えています。女性だけが毛を処理するべきという見方は何とも不平等であり、近年SNSでは疑問の声があがっています。

そもそも、「女性の肌には毛があるべきではない」という価値観が多くの国に浸透したのは、1915年にアメリカのGillette社が発売した女性用シェーバーが発端だとされています。それまで、女性は脇、腕、脚の毛を自然のままにしていましたが、同社が巧みなマーケティングで「毛をそるのが女性らしく清潔」と宣伝したため、その価値観がアメリカから各国に広がりました。1940年代に入ると、第2次世界大戦下でのナイロン不足により、アメリカの女性はナイロンを使用したタイツや靴下を履けなくなり、生足になったことから、それが「脚の毛をそらなければいけない」というムーブメントに拍車をかけたと言われています。今の日本の「女性は毛がなくて当たり前」という感覚も、美容業界の宣伝が一つの要因だと筆者は考えます。

「毛」について、筆者には嫌な思い出があります。日本に来たばかりの頃、ドイツ語を教えていたのですが、ある時、男性の生徒が「サンドラぐらいの腕なら中学生でもいっぱいいる」と言いました。おそらく、「あなたの腕には毛が生えていますね。けれども気にしないでください」という意味だったのでしょうが、全く毛の話などしていないのに、あえてそれを口に出して言われることがたまらなく嫌でした。ずいぶん長い間、世間の流れに逆らって腕の毛をそのままにしていましたが、「そうでなくても外国人的な容姿で目立つのに、更に毛で目立ちたくない」という気持ちに負け、永久脱毛をしました。

ルッキズムにあらがうには

筆者の顔は左右対称ではありません。「右と左が違いますけど、歯でも悪いんですか?」と確認されることがあります。そう言う人は全員が男性です。ルッキズムの大きな問題点は、「男性は直球で女性の容姿に言及する」ということだと思います。ルッキズムは、容姿を利用して、「男性のほうが上なんだよ」と何げにアピールするために使われている印象があります。つまり、性別と無関係の話ではないのです。

特に女性に対しては、冒頭に書いた女友達Aさんの言うように、「容姿について言及しないこと」が確かに大事だと思います。容姿に注目してしまうと、女性の政治家、女性社長、女性のキャスターなど公の場でよく目にする女性について、彼女たちの仕事の能力よりも、きれい、細い、痩せた、太った、むくんでる、老けたなどといった点にフィーチャーしてしまいがちです。モデルのように、いわゆる「美」が求められる職業ではないはずなのに、女性にばかり厳しい美の基準を求めることは、該当の女性だけでなく、女性全員の生きづらさにつながります。

そう考えると、人の容姿については、ポジティブなものであれ、ネガティブなものであれ、まずは「発言は控えてみる」というのが、ルッキズムにあらがう第一歩かもしれません。ゆくゆくは社会にそのような感覚が浸透すれば、多くの人が生きやすくなるでしょう。