長篠の戦い「三段撃ち」「騎馬軍団」は創作?最新研究が覆す通説
長篠の戦い「三段撃ち」「騎馬軍団」は創作?最新研究

1575年、武田勝頼は織田・徳川連合軍と長篠の戦いを繰り広げ、敗北を喫した。しかし、歴史学者の渡邊大門氏は、小説や映画で描かれるような戦いの実像は一次史料が極端に乏しく、非常に疑わしいと指摘する。本稿は、渡邊氏の著書『信長包囲網の真相』(星海社新書)の一部を再編集したものである。

「三段撃ち」も「騎馬軍団」もなかった可能性

織田・徳川連合軍が向かった設楽原(愛知県新城市)は平野ではなく、丘陵地が沢や小川に沿って南北に連なる地形だった。両軍は連吾川を挟んで陣を敷き、川を自然の堀として防御線を築いた。織田・徳川連合軍は丘陵地ゆえに相手陣を奥深くまで見渡せない地形を利用し、馬防柵を築くなど万全の体制を整えた。また、武田方の軍勢よりも織田・徳川軍の方が圧倒的に多かったとされる。

天正3年(1575)5月21日、長篠の戦いの前哨戦として鳶ケ巣山砦(愛知県新城市)で攻防が行われた。鳶ケ巣山砦は武田方が長篠城攻略のために築いた付城だった。織田・徳川連合軍は奇襲戦でこれを攻略し、武田方の退路を断つことに成功。これにより士気を高め、戦いを有利に進めた。

Pickt横長バナー — Telegram用の共同買い物リストアプリ

3000丁の鉄砲と熟練射手の疑問

長篠の戦いで語られる最大の謎は、織田・徳川連合軍の軍事革命とされる戦法だ。これまで、織田・徳川連合軍は戦国最強の武田騎馬軍団を3000丁もの鉄砲で撃破したとされてきた。しかし渡邊氏は、熟練した射手が3000人もいたのか疑問を呈する。当時の鉄砲は命中精度が低く、装填に時間がかかるため、3000丁の鉄砲を効果的に運用するには高度な訓練が必要だった。

また、武田騎馬軍団は実際には馬から降りて戦っていた可能性が高い。馬防柵を突破するには大型の馬が必要だが、当時の日本馬は小型で、柵を飛び越えるのは現実的ではなかった。さらに、1キロ先まで号令が聞こえたかどうかも疑問視されている。

後世に脚色された可能性

渡邊氏は、これらの通説は後世に脚色された可能性が高いと指摘する。一次史料が極端に乏しい中で、江戸時代以降の軍記物や屏風絵などが創作を膨らませたとみられる。長篠の戦いの実像を解明するには、さらに慎重な史料批判が必要だ。

Pickt記事後バナー — 家族イラスト付きの共同買い物リストアプリ