中央大学経済学部の中村千尋准教授は2026年9月16日、中央大学と読売調査研究機構が共催したオンラインセミナーで「包摂と排除を考える-フランスの移民政策を事例として-」と題して講演しました。中村准教授は、労働力不足の補填に主眼を置いて社会統合が追い付かないフランスの移民政策の歴史を検証し、後半のトークセッションでは、日本との比較や移民2世の問題についても自身の考えを語りました。
国際移民の現状とフランスの特殊性
中村准教授は、自身の専門が経済史で、特にフランスの歴史に関心を持って研究を進めてきたと述べ、大学では西欧諸国を中心にグローバルな視点から経済の歴史を読み解く授業を担当していると紹介しました。その上で、人、モノ、カネ、情報が国境を越えて移動するグローバル化の流れの中でも人に焦点を当て、フランスにおける労働者受け入れの歴史について話しました。
現代は国際移民の時代と言われており、何らかの事情で生まれた国とは異なる国・地域で暮らす人は2024年現在3億400万人、世界人口の3.7%に相当し、そのうち半数近くは先進諸国に移動しています。日本の在留外国人は昨年末に初めて400万人を超えたと発表されたものの、総人口に占める割合は3%ほどで、10~20%ほどである日本以外のG7(先進7か国)の国よりは少ない状況です。
フランスにおける在留外国人の総人口比は11%で、先進国の中で特に多いわけではありませんが、昨今、移民は重要な政治課題となっています。来年春の大統領選では新大統領が選出されますが、反移民を訴える極右政党、マリーヌ・ルペン氏を党首とする国民連合が勢いを増している状況です。
移民の定義と歴史的推移
現在のフランスでは、移民排斥の動きが強まっているように見えますが、社会に包摂しようとする試みもなされてきました。フランスに限らず、移民1世のほか、親や祖父母が移民というルーツを持つ人々は、職場や学校などで様々な困難を抱えることがあり、そうした問題の解消を目指し、社会統合のための施策が積み重ねられてきたのです。移民の包摂と排除の動きが混在しているのが今のフランス社会です。
フランスの移民社会の歴史をたどるうえで、1920年代から30年代は重要です。第1次世界大戦と第2次世界大戦に挟まれた戦間期の経験が、20世紀後半の移民政策を規定したと考えられるからです。
移民の定義は国によって異なりますが、フランスでは、外国において外国籍の人として生まれ、その後フランスで居住する者とされています。フランス国籍を取得したかどうかは問わないため、外国籍の移民とフランス国籍を取得した移民を合わせた移民人口は800万人で、フランスの人口(6890万人)の約1割に相当します。この中にはフランスで生まれた移民2世、3世は含まれていませんが、彼らもまた、出自などで差別や排除に直面しています。
フランスにおける外国人数の推移ですが、1851年に38万人(1.1%)だったのが、19世紀後半から20世紀初頭は100万人程度で推移し、1920年代に急激に増加し、1931年には271万人(6.6%)となっています。第2次世界大戦後は、1980年代初頭まで増えた後、やや減少するものの、2000年代に入って再び増加し、2025年は630万人(9.1%)で統計を取り始めてから最も多くなっています。
労働力不足と移民受け入れの歴史
外国人の国籍を見ると、戦前はヨーロッパ出身者が大半でした。第1次世界大戦後の復興期に戦争による人口減少を補うべく、イタリア、ベルギー、スペインのほか、ポーランドからも多くの移民を受け入れました。第2次世界大戦後は、当初は南欧からが多かったのが、次第にヨーロッパ域外からの移民が増加します。特にフランスにとって重要だったのが、旧植民地であるアルジェリア、モロッコ、チュニジアなど北アフリカからの移民です。これらの国々から単身でフランスに来て、一定期間働いては自国に帰るといった往来が1950年代から70年代前半まで盛んに行われました。
移民受け入れの流れが引き締めへと転換されたのが1974年でした。前年の第1次石油危機で景気が減速する中、ジスカールデスタン大統領は外国人労働者の新規受け入れを停止。国内に残った移民、特にアルジェリア人移民の処遇や国籍の問題が政治的な争点となり、その状態が1980年代以降も続くのです。2023年の統計では、フランスへの移民はアフリカ出身者が45.5%、ヨーロッパ出身者が27.5%となっています。
戦間期の移民政策と社会統合の欠如
フランスではなぜ、移民が必要だったのでしょうか。ヨーロッパの中で、フランスは最も早い時期から移民を受け入れた国と言われています。19世紀のイギリス、ドイツ、イタリアは自国民が海外に移住していく時代で、とくにヨーロッパからアメリカへ多くの移民が渡りました。そうした中、フランスで外国人が増えた背景には、人口の問題があります。19世紀後半には人口増加が緩やかになり、当時は人口が国力、軍事力を表す重要な指標でもあったため、1870年に第三共和制が成立して以降、移民への関心が次第に高まります。農業や製鉄業、炭鉱業などで労働力不足が問題となっていたほか、第1次世界大戦では労働力も兵士も足りず、フランス政府はヨーロッパ諸国、植民地、さらには中国からも兵士や労働者の集団的な導入を行い、外国人管理のための身分証明カードを発行しました。
1918年に終戦を迎えると、今度は復興のための移民政策を展開します。1920年代のフランスは、ドイツに比べて重工業化が遅れており、戦後復興を経て鉱山、金属、建設、農業などの分野で深刻な人手不足に直面します。ポーランド、イタリア、チェコスロバキアなどとの間で、フランス人労働者との均等待遇などを定めた2国間協定を結び、労働者の受け入れを促進しました。ただ、こうした政策をとりまとめる政府機関は設置されず、各省庁がそれぞれの管轄の問題として扱っていました。外務省は2国間協定で相手国と交渉し、労働省は工業労働者、農業省は農業労働者の募集を、内務省は外国人管理、司法省は帰化や国籍を扱いました。民間でも、炭鉱業の経営者団体らが創設した「移民会社」と呼ばれる民間組織が、ポーランドからの労働者の導入を積極的に行いました。この結果、1920年代は外国人数が急激に増え、農業では15%、建設、金属も13%が外国人労働者になりました。
しかし、社会の包摂がなされていたとは言えないでしょう。賃金など待遇面での平等が2国間協定を通じて実現し、福祉国家形成への大きな一歩とみなす研究もありますが、そもそも均等待遇は、外国人労働者の流入でフランス人労働者が仕事を失わないようにと組合側が求めたものであり、フランス人労働者の保護に主眼がありました。失業給付は自治体の裁量に委ねられ、移民の制限や送還は失業対策の一環であり、移民は労働市場の安全弁とみなされていたのです。集団募集でフランス側が職業紹介を行うなど、職業選択の自由にも一定の制約がありました。雇用主による外国人労働者の引き抜きが相次ぎ、外国人の離職率の高さも問題となりました。
世界恐慌と排外主義の強まり
1929年に始まった世界恐慌の影響で、1930年代は各国で移民外国人に対する排斥が強まりました。フランスでも失業が増え、政府は移民の受け入れを制限しました。排外主義が強まる中、法律で地域や職種ごとに外国人の雇用比率を定め、フランス人労働者の雇用を優先する原則が確立し、これは戦後も継承されます。1920年代にフランスに渡っていたポーランド人も対象となり、北部炭鉱のポーランド人労働者が解雇・送還により祖国に戻る場面に遭遇したサン・テグジュペリは、著書『夜間飛行・人間の大地』(野崎歓訳、岩波文庫)の中で、「ヨーロッパの端から端へと、経済の潮流に押し流されるがまま、北フランスの小さな家、狭い庭、ゼラニウムの三つの鉢(中略)から引き離された彼らは、もはや人間らしさを半ば失っているように見えた」と記しています。
こうした政府の施策に対し、産業界は、生産縮小やフランスからの輸出に対する外国の報復措置への懸念から批判の声を上げ、外国人労働者は必要だと訴えます。ただ、その背景には、フランス人は失業しても前の仕事よりも待遇の悪い仕事には就きたがらず、労働条件の悪い工場では新たな労働力不足に陥りかねないという事情もありました。
戦後の移民政策と社会統合の課題
第2次世界大戦後も、臨時政府首班のシャルル・ドゴールのもとで1945年11月のオルドナンス(行政権によって発せられる命令の一種)が制定されると、翌年から移民労働者の募集活動が再開され、まず、フランス政府はイタリアと2国間協定を結びます。復興を経て、1950年代半ばに経済成長の段階に入ると、非正規で入国して就労する移民労働者が増えましたが、政府はその状況を黙認し、政府による管理は非正規の労働者を正規化するという事後的な調整にとどまりました。背景には、1947年にアルジェリアのムスリムに市民権が付与され、フランス本土への移動の自由が認められたことでアルジェリアからの単身労働者の往来が急増し、人の移動の管理が難しくなったという事情がありました。戦後のフランスは住宅不足が深刻だったこともあり、非正規の外国人に対する住宅環境の整備がなされず、都市郊外にはビドンヴィルと呼ばれるスラム街のような地域が作られました。社会が豊かになり、ベビーブームで人口としての移民の必要性が薄れると、移民への関心も失われていき、1980年代までは移民問題は議会で扱われることなく、官僚主導で処理されていたのです。
フランスの移民政策の歴史をまとめると、戦後の高度成長期までは、労働者をどのように受け入れ、管理し、景気後退時にはどのように送り返すかということに主眼が置かれ、必要な生活支援や人権意識を欠いたものでした。移民、外国人労働者はフランスの工業化と近代化を支える役割を果たしましたが、その構図は、彼らへの搾取の上に成り立っていたとも言えると思います。オイルショックで労働者の新規受け入れをストップし、既に国内に定着している移民の統合の問題に関心が集まるようになると、ここから移民政策には社会統合という大きな課題が加わり、今日に至っているという状況です。