遺体が幾重にも折り重なった光景は、地獄絵図のようだった。1945年8月、原爆投下後の広島市に姉を捜して入った福寄澄江さん(89)=島根県益田市=は、焦土と化した街を何時間も歩き続け、焼け焦げた電車の中で一夜を明かした。
「何十年たっても、私の中で戦争は終わっていない」。福寄さんはそう語る。
3歳で岩国へ、母の実家に疎開
福寄さんは広島県三原市出身。3歳の時、父の転勤で山口県岩国市に引っ越した。5歳上の姉は列車を乗り継ぎ、約1時間かけて広島女子商業学校(現・広島翔洋高)に通学していた。父は中国に出征し、1940年代に入ると、福寄さんは一人、母の実家がある広島県呉市の下蒲刈島に疎開した。
「あの日」、福寄さんは朝から網を手に、友人と海辺で魚やカキを捕っていた。突然、サイレンが鳴り響いた。瀬戸内海に浮かぶ島から北西の空を見ると、灰色のキノコ雲が立ちのぼっていた。「広島に今までにない爆弾が落ちた」と近所の人に聞かされた。
深夜に漂う「火の玉」
すぐに母は姉がいる広島市へ向かった。福寄さんも数日後、伯母らとともに船で広島へ向かった。広島市南区の宇品港に着くと、「ビルは倒れ、何もかも焼け焦げていた」。福寄さんは何時間もさまよい歩き、夕暮れ時、一両の路面電車にたどり着いた。
車体の窓ガラスは吹き飛び、車内は薄暗かった。すでにいた数人の表情はよく見えなかったが、「疲れ切り、うなだれていた」。福寄さんはかろうじて残っていた座席に腰を下ろした。会話する人は誰もいない。深夜、外に目をやると、オレンジ色に光る〈火の玉〉が漂っているのが見えた。「遺体のリンが燃えたんだと。家に帰りたいと願う死者の魂が、乱舞しているようだった」
遺体が積み重なる学校で姉と再会
その翌日、福寄さんは母と再会した。場所は「大野の小学校」としか覚えていない。校内にはやけどで苦しむ人が何十人と横たわり、校庭には数え切れないほどの遺体が積み重ねられていた。腐敗が進み、大きく膨れ上がった遺体もあり、「人間の想像の域を超えていた」と福寄さんは表情を曇らせた。
姉は傷病者が集う教室の奥で、一人でたたずんでいた。腕はただれ、ショートカットの髪はちぢれていた。姉は空襲の被害拡大を防ぐためにあらかじめ建物を壊す「建物疎開」の準備をしていて、屋外で被爆した。福寄さんは疎開先の祖母から預かっていたあられを小さく割り、姉に食べさせた。姉の舌は、真っ赤にただれていた。
「戦争さえなければ」
ほどなく終戦を迎えた。福寄さんは秋に岩国市へ戻り、姉はしばらく入院した。父は復員し、数年後には父の転勤で益田市に引っ越した。姉が顎と頬に負った傷は消えることのないアザとなり、外出時は常にマスクで隠した。
家族の中で原爆の話は「タブー」だった。母は肝臓がん、姉は大腸がんで66歳で亡くなった。「戦争さえなければ、家族はもっと長生きできたはず。今でも、それだけが胸につかえて仕方がない」。そんな思いが福寄さんの脳裏を離れない。
今年も8月6日には松江市の原爆慰霊碑に手を合わせる。「胸の苦しみは消えることはない。でも、みんなの分まで平和を訴えるから」。福寄さんは毎夜、両親と姉の遺影にそう語りかける。戦争のない世界になる日が来ることを信じて。



